「太平記」をもじってはいるものの、この小説には戦争の話はもちろん天下国家の話は殆ど出てこない(というか、「無思想の作家」である谷崎が天下国家を論じるわけがない)。
この小説においては、ひたすら磊吉夫婦の「イエ」における日常の出来事(女中たちの身の上話、病気(癲癇)や嘔吐癖、女中同士の同性愛、食事のことなど)が細かく描かれている。
もっとも、「イエ」といっても、磊吉夫婦じたいが伝統的な直系家族ではなく、子どもとは同居していないバツイチ同士の二人世帯である。
つまり、この小説のトポスからして伝統的な「イエ」ではない。
この小説においては、ひたすら磊吉夫婦の「イエ」における日常の出来事(女中たちの身の上話、病気(癲癇)や嘔吐癖、女中同士の同性愛、食事のことなど)が細かく描かれている。
もっとも、「イエ」といっても、磊吉夫婦じたいが伝統的な直系家族ではなく、子どもとは同居していないバツイチ同士の二人世帯である。
つまり、この小説のトポスからして伝統的な「イエ」ではない。
また、当主である磊吉(=谷崎)も「父」の権威を振りかざすような旧時代の人間ではない。
(今さら言うまでもないけれど、谷崎は、父権サディズムとは対極にある、男のマゾヒズムを体現した作家であった。)
しかも、主役である女中たちは、初や梅だけでなく、未亡人の「節」(p86)、親の離婚のため母の実家に養女として引き取られたものの、実子の誕生により「子守」に地位に落とされた「定」(p146)など、いわば「イエ」制度からはじき出された者たちである。
中でも、「大層子供好きで、殊に動物に対する愛情がこまやかで、犬猫の面倒をよく見ました」(p144~145)という定に対する磊吉夫婦の感情移入は目立っており、定に対する磊吉の評価は、おそらく女中のうちでナンバーワンである。
ここには、磊吉夫婦(そして谷崎)の、身寄りのない者や子供・動物に対する愛情がよくあらわれており、磊吉夫婦は、こうした哀れな女中たちと動物たちを、「親代わりに」可愛がっているわけである。
つまり、磊吉の「イエ」は、伝統的な「イエ」では全くなく、孤児院や救貧院のような性格を有しているのである。
ちなみに、1950年代においても、依然として娘の人身売買が結構あったようである(『本当は怖い昭和30年代』官庁報告書版)。
しかも、主役である女中たちは、初や梅だけでなく、未亡人の「節」(p86)、親の離婚のため母の実家に養女として引き取られたものの、実子の誕生により「子守」に地位に落とされた「定」(p146)など、いわば「イエ」制度からはじき出された者たちである。
中でも、「大層子供好きで、殊に動物に対する愛情がこまやかで、犬猫の面倒をよく見ました」(p144~145)という定に対する磊吉夫婦の感情移入は目立っており、定に対する磊吉の評価は、おそらく女中のうちでナンバーワンである。
ここには、磊吉夫婦(そして谷崎)の、身寄りのない者や子供・動物に対する愛情がよくあらわれており、磊吉夫婦は、こうした哀れな女中たちと動物たちを、「親代わりに」可愛がっているわけである。
つまり、磊吉の「イエ」は、伝統的な「イエ」では全くなく、孤児院や救貧院のような性格を有しているのである。
ちなみに、1950年代においても、依然として娘の人身売買が結構あったようである(『本当は怖い昭和30年代』官庁報告書版)。