細雪 上巻 十二
「―――雪子の左の眼の縁、―――委くわしく云えば、上眼瞼うわまぶたの、眉毛まゆげの下のところに、ときどき微かな翳かげりのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。貞之助はその時幸子に、いつから雪子ちゃんの顔にあんなものが出始めたのだと、そっと尋ねたのであるが、幸子が気が付いたのもこの頃で、前にはあんなものはありはしなかった。この頃でも、始終ある訳ではなくて、平素はそう思って注意して見ても殆ど分らないくらい薄くなっていたり、完全に消えてしまっていたりして、ふっと、一週間ばかりの期間、濃く現れることがあるのであった。幸子はやがて、その濃く現れる期間は月の病の前後であるらしいことに心づいた。・・・
と、或る時妙子が、「中姉なかあんちゃんこれ読んだか」と云って、二三箇月前の或る婦人雑誌を持って来たことがあった。幸子が見ると、その古雑誌の身上相談の欄のところに、二十九歳になる未婚の一婦人が雪子と同じ症状に悩んでいることを訴えているのである。その婦人も最近それに気が付いたので、矢張一箇月のうちにそれが薄くなる時、消えてしまう時、濃くなる時があり、大体来潮時の前後に於いて最も顕著になると云っているのであるが、その答の方を読むと、貴方あなたの如き症状は適齢期を過ぎた未婚の婦人には屡※(二の字点、1-2-22)しばしばある生理的現象で、そう心配なさることはない、大概の場合、結婚されれば直きに直るものだけれども、そうでなくても、女性ホルモンの注射を少し続けられても治癒ちゆすることが多い、と書いてあるのであった。」
「台所太平記」が連載されていた「サンデー毎日」の読者は、この小説がどういうエンディングを迎えるのか興味津々だったことだろう。
ところが、谷崎は最初からある解決を用意していた。
そのことは、梅の癲癇に関する次のくだり(医師の解説)を読むと分かる。
「但し先天性の癲癇は直りにくいが、君のは後天性のものであるから、決して悲観することはない。毎日アレビアチンという錠剤の鎮痙剤を持続して服用すれば、次第に発作も軽くなって遂には起こらないようになる。しかし最も完全な治療法は、早く結婚することである。結婚すれば必ず治癒することは請け合いである。」(p61~62)
松田青子さんも「解説」で指摘するとおり、「細雪」においても「台所太平記」においても、結婚は万能薬なのである。
だが、ここには、最初の妻を佐藤春夫に「譲り」(谷崎潤一郎らが「細君譲渡事件」で声明文を発表(大正15年8月18日))、二人目の妻を入籍直後に「捨て」(谷崎潤一郎、二番目の妻)、「女神」と仰いだ妊娠5か月の三番目の妻:松子に「中絶」を強いる(谷崎潤一郎と三人の妻 中山 隆夫)など、およそ結婚制度を蹂躙してきたともいえる谷崎の「自己欺瞞」を看取することが出来そうだ。
「―――雪子の左の眼の縁、―――委くわしく云えば、上眼瞼うわまぶたの、眉毛まゆげの下のところに、ときどき微かな翳かげりのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。貞之助はその時幸子に、いつから雪子ちゃんの顔にあんなものが出始めたのだと、そっと尋ねたのであるが、幸子が気が付いたのもこの頃で、前にはあんなものはありはしなかった。この頃でも、始終ある訳ではなくて、平素はそう思って注意して見ても殆ど分らないくらい薄くなっていたり、完全に消えてしまっていたりして、ふっと、一週間ばかりの期間、濃く現れることがあるのであった。幸子はやがて、その濃く現れる期間は月の病の前後であるらしいことに心づいた。・・・
と、或る時妙子が、「中姉なかあんちゃんこれ読んだか」と云って、二三箇月前の或る婦人雑誌を持って来たことがあった。幸子が見ると、その古雑誌の身上相談の欄のところに、二十九歳になる未婚の一婦人が雪子と同じ症状に悩んでいることを訴えているのである。その婦人も最近それに気が付いたので、矢張一箇月のうちにそれが薄くなる時、消えてしまう時、濃くなる時があり、大体来潮時の前後に於いて最も顕著になると云っているのであるが、その答の方を読むと、貴方あなたの如き症状は適齢期を過ぎた未婚の婦人には屡※(二の字点、1-2-22)しばしばある生理的現象で、そう心配なさることはない、大概の場合、結婚されれば直きに直るものだけれども、そうでなくても、女性ホルモンの注射を少し続けられても治癒ちゆすることが多い、と書いてあるのであった。」
「台所太平記」が連載されていた「サンデー毎日」の読者は、この小説がどういうエンディングを迎えるのか興味津々だったことだろう。
ところが、谷崎は最初からある解決を用意していた。
そのことは、梅の癲癇に関する次のくだり(医師の解説)を読むと分かる。
「但し先天性の癲癇は直りにくいが、君のは後天性のものであるから、決して悲観することはない。毎日アレビアチンという錠剤の鎮痙剤を持続して服用すれば、次第に発作も軽くなって遂には起こらないようになる。しかし最も完全な治療法は、早く結婚することである。結婚すれば必ず治癒することは請け合いである。」(p61~62)
松田青子さんも「解説」で指摘するとおり、「細雪」においても「台所太平記」においても、結婚は万能薬なのである。
だが、ここには、最初の妻を佐藤春夫に「譲り」(谷崎潤一郎らが「細君譲渡事件」で声明文を発表(大正15年8月18日))、二人目の妻を入籍直後に「捨て」(谷崎潤一郎、二番目の妻)、「女神」と仰いだ妊娠5か月の三番目の妻:松子に「中絶」を強いる(谷崎潤一郎と三人の妻 中山 隆夫)など、およそ結婚制度を蹂躙してきたともいえる谷崎の「自己欺瞞」を看取することが出来そうだ。