谷崎潤一郎は鹿児島がお好き?お手伝いさん求め手紙切々
「私は泊(とまり)生れの人が大好きなのです――。文豪谷崎潤一郎(1886~1965)がお手伝いさんのあっせんを頼む手紙が、鹿児島県の坊津(ぼうのつ)町(ちょう)泊(南さつま市)に残されていた。晩年の小説「台所太平記」には、自らがモデルの作家宅に勤めた泊出身のお手伝いさんが多く登場し、働き手の紹介を頼む手紙を鹿児島に出す一節がある。研究者も「実体験を裏付ける貴重な資料」と評価する。」
谷崎最後の長編小説である「台所太平記」は、谷崎の古き良き「イエ」に対するノスタルジアから生まれた小説のようである。
しかも、「台所」は母親の胎内を象徴しているから、この小説は、谷崎文学の本流ともいうべき「胎内回帰願望」路線のカテゴリーに属しているという見方も出来る。
さて、この小説は、作家である磊吉とその妻:讃子夫婦が暮らす家の「台所」が舞台であり、主人公はそこで働く女中たちである。
もっとも、解説文において松田青子氏が「半人前」と表現しているように、彼女たち=女中は、「イエ」の正式なメンバーではない。
最後まで読むと分かるが、台所は、結婚して「イエ」の正式なメンバーとなるまでの間、彼女たちを養育するための空間(喩えて言えば母親の胎内)なのである。
こういう観点からすれば、女中たちの大半が鹿児島県出身である理由がよく分かる。
というのも、この県は、(当地で働いていたことのある私はよく分かるのだが)「イエ」的な思考・行動(父権制的権威主義、敬老精神、集団思考・集団志向など)が根強く残っている地方だからである。
(ちなみに、法曹界でも、東京三会の弁護士全員にハガキを送付してきたり、事務所の歌を作って集団で盛大なセレモニーを開いたりする人たちは、だいたいこの県の出身者である。)
磊吉夫婦はお互い再婚で、それぞれ子供たちがいるものの、夫婦はいずれも子供たちとは疎遠となっており、女中たちのことを実の子のような思いでみているようだ。
磊吉夫婦の「イエ」に最初にやってきた女中は、「初」という、鹿児島県川辺郡西南方村(今の坊津町)の「泊」という漁村の出身で、半農半漁をなりわいとする家の娘だった(p14)
「私は泊(とまり)生れの人が大好きなのです――。文豪谷崎潤一郎(1886~1965)がお手伝いさんのあっせんを頼む手紙が、鹿児島県の坊津(ぼうのつ)町(ちょう)泊(南さつま市)に残されていた。晩年の小説「台所太平記」には、自らがモデルの作家宅に勤めた泊出身のお手伝いさんが多く登場し、働き手の紹介を頼む手紙を鹿児島に出す一節がある。研究者も「実体験を裏付ける貴重な資料」と評価する。」
谷崎最後の長編小説である「台所太平記」は、谷崎の古き良き「イエ」に対するノスタルジアから生まれた小説のようである。
しかも、「台所」は母親の胎内を象徴しているから、この小説は、谷崎文学の本流ともいうべき「胎内回帰願望」路線のカテゴリーに属しているという見方も出来る。
さて、この小説は、作家である磊吉とその妻:讃子夫婦が暮らす家の「台所」が舞台であり、主人公はそこで働く女中たちである。
もっとも、解説文において松田青子氏が「半人前」と表現しているように、彼女たち=女中は、「イエ」の正式なメンバーではない。
最後まで読むと分かるが、台所は、結婚して「イエ」の正式なメンバーとなるまでの間、彼女たちを養育するための空間(喩えて言えば母親の胎内)なのである。
こういう観点からすれば、女中たちの大半が鹿児島県出身である理由がよく分かる。
というのも、この県は、(当地で働いていたことのある私はよく分かるのだが)「イエ」的な思考・行動(父権制的権威主義、敬老精神、集団思考・集団志向など)が根強く残っている地方だからである。
(ちなみに、法曹界でも、東京三会の弁護士全員にハガキを送付してきたり、事務所の歌を作って集団で盛大なセレモニーを開いたりする人たちは、だいたいこの県の出身者である。)
磊吉夫婦はお互い再婚で、それぞれ子供たちがいるものの、夫婦はいずれも子供たちとは疎遠となっており、女中たちのことを実の子のような思いでみているようだ。
磊吉夫婦の「イエ」に最初にやってきた女中は、「初」という、鹿児島県川辺郡西南方村(今の坊津町)の「泊」という漁村の出身で、半農半漁をなりわいとする家の娘だった(p14)