「作品に山中湖は登場するが、三島との特別な縁はない。なぜ山中湖なのか-。三島の遺族は公共機関での作品や資料の保管、利用を希望したが、三島が自衛隊の決起を呼びかけて割腹自決したという事情から尻込みする機関が多く、山中湖村だけが手を挙げたという。」
山中湖畔の林の中に、「山中湖文学の森公園」というスポットがあり、そこには、山中湖畔に別荘を所有しており戦前・戦中の代表的軍国主義イデオローグであった徳富蘇峰を記念して建てられた(らしい)徳富蘇峰館と並んで、なぜか、三島由紀夫文学館なる建物が存在している。
ところが、徳富蘇峰と三島由紀夫の共通点を見つけるのは難しい。
事情通であれば、徳富蘇峰という人物は、天皇をキリスト教の「神」に相当するものとして位置づけようと考え、ジャーナリスト・著述家としてこの思想を一般に流布させようとしたとんでもない人物であること(天職ジャーナリスト?)、また、晩年の三島由紀夫が、戦前から戦後にかけてのいわゆる「知識人」の無責任・無節操に対し激しい嫌悪を抱いていたことを知っているはずである。
(余談だが、私が生まれた家は、徳富蘇峰・蘆花兄弟の生家とは目と鼻の先のところにある。)
そして、そのような事情通にとって、徳富蘇峰という人物が、三島が激しく嫌悪していた典型的な「知識人」に属することはほぼ明らかであり、この2人を顕彰する記念館が並んで建っているのを見れば、おそらく少なからぬ違和感を抱くはずである。
どうしてこの2人が、こんな形でカップリングされているのだろうか?
「軍国主義ジャーナリスト」と「(晩年における)右翼的傾向の強い作家」という風に、「”右”つながり」という括り方をされたのだろうか?
もちろん、そういうことはない。
上に引用したとおり、公共機関での作品や資料の保管・利用を希望する三島の遺族の希望を受け容れたのが、唯一山中湖村だけだったということらしいのである。
ちなみに、私の見る限り、現在の徳富蘇峰館は、彼の業績を顕彰したり彼に関するについて資料を展示することを主目的として使用されているとは到底思われない。
むしろ、カルチャー教室やボランティア団体などのためのスペースと化しているようだ。