Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

不健全な自我の拡張(2)

2023年07月23日 06時30分00秒 | Weblog
 「三島由紀夫は「海」にただならぬ意味を見出していました。それはこの日常の桎梏からの解放、未見の自然、怖れ、開放された心身、死、おおらかさ、ロマン的心情、蠱惑(こわく)、奇跡、不思議、禁止、マッチョな力強さ、不吉な凶兆、永遠、憧れなどです。それを文学作品に取り入れることで、作品の中心となる想念を表現し、三島自身の内にある得体の知れない情念を表現しました。
 「海」は三島にとって、そういう不可解な力を託す現象であり物象でした。
 ありていに言って、三島作品における「海」は、山とも川とも草原とも街とも異なる、単なる地形や場所を示すことばではありません。道路、ビル街、駅、ホテル、病院、レストラン、酒場、学校などの場所とも次元を異にしています。

 「海」に”ただならぬ意味”を見いだす作家は極めて多い。
 佐藤氏が指摘したのと似たやり方で「海」ということばを用いる作家としては、例えば、遠藤周作氏が挙げられる。
 遠藤氏は、「海と毒薬」の中で、F市の海(及び東支那海)を「黒い海」と形容しており、「海」に対し、人の死を予兆するものとして、あるいは、人間の内面に潜む「悪」をあらわすものとして用いている。
 すなわち、この文脈における「海」は、単に、具体的に存在する地形・場所をあらわすことばとしての「海」ではなく、これに何か別の抽象的なものが仮託され、象徴として用いられているわけである。
 これを、「『海』の象徴的用法」と呼ぶことが出来るだろう。
 以下、具体的に見ていく。
 

 

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