「三島由紀夫は「海」にただならぬ意味を見出していました。それはこの日常の桎梏からの解放、未見の自然、怖れ、開放された心身、死、おおらかさ、ロマン的心情、蠱惑(こわく)、奇跡、不思議、禁止、マッチョな力強さ、不吉な凶兆、永遠、憧れなどです。それを文学作品に取り入れることで、作品の中心となる想念を表現し、三島自身の内にある得体の知れない情念を表現しました。
「海」は三島にとって、そういう不可解な力を託す現象であり物象でした。
ありていに言って、三島作品における「海」は、山とも川とも草原とも街とも異なる、単なる地形や場所を示すことばではありません。道路、ビル街、駅、ホテル、病院、レストラン、酒場、学校などの場所とも次元を異にしています。」
ありていに言って、三島作品における「海」は、山とも川とも草原とも街とも異なる、単なる地形や場所を示すことばではありません。道路、ビル街、駅、ホテル、病院、レストラン、酒場、学校などの場所とも次元を異にしています。」
「海」に”ただならぬ意味”を見いだす作家は極めて多い。
佐藤氏が指摘したのと似たやり方で「海」ということばを用いる作家としては、例えば、遠藤周作氏が挙げられる。
遠藤氏は、「海と毒薬」の中で、F市の海(及び東支那海)を「黒い海」と形容しており、「海」に対し、人の死を予兆するものとして、あるいは、人間の内面に潜む「悪」をあらわすものとして用いている。
すなわち、この文脈における「海」は、単に、具体的に存在する地形・場所をあらわすことばとしての「海」ではなく、これに何か別の抽象的なものが仮託され、象徴として用いられているわけである。
これを、「『海』の象徴的用法」と呼ぶことが出来るだろう。
以下、具体的に見ていく。