日本的霊性(鈴木大拙)
いろんな人が称揚しているので読んでみたが、かなり問題のある本である。
そもそも、「霊性」の定義からして問題がある。精神と物質との「二元的世界」の相克を克服するためには「霊性」が必要であるといい、これは「宗教意識」と言い換えてもよいという(p6)。ここで、既に不明確な概念が突如として出現している。
しかも、「霊性」というのは人類通有のものではなく、「日本的」「シナ的」「印度的」などという風に、民族(又は国家)ごとに単位があるらしい。なぜなら、「霊性」は「大地」(生活)を離れることができず(p59)、民族ごとに生活が異なるからのようである(ただし、はっきりとした説明はない)。
結論として、鈴木氏は、「禅と念仏」が日本的霊性の中核であるというが(p9)、その理由がすさまじい。例えば、「禅」については、「日本人の生活そのものが禅的である」(p11)から、日本的霊性の中核をなすのだという。絵にかいたようなトートロジーである、
言葉を単純に追っていけば、論理が破たんしていることはすぐに分かるのだが、こういう本をありがたいという人も結構いるのだから、なんともはや・・・。
いろんな人が称揚しているので読んでみたが、かなり問題のある本である。
そもそも、「霊性」の定義からして問題がある。精神と物質との「二元的世界」の相克を克服するためには「霊性」が必要であるといい、これは「宗教意識」と言い換えてもよいという(p6)。ここで、既に不明確な概念が突如として出現している。
しかも、「霊性」というのは人類通有のものではなく、「日本的」「シナ的」「印度的」などという風に、民族(又は国家)ごとに単位があるらしい。なぜなら、「霊性」は「大地」(生活)を離れることができず(p59)、民族ごとに生活が異なるからのようである(ただし、はっきりとした説明はない)。
結論として、鈴木氏は、「禅と念仏」が日本的霊性の中核であるというが(p9)、その理由がすさまじい。例えば、「禅」については、「日本人の生活そのものが禅的である」(p11)から、日本的霊性の中核をなすのだという。絵にかいたようなトートロジーである、
言葉を単純に追っていけば、論理が破たんしていることはすぐに分かるのだが、こういう本をありがたいという人も結構いるのだから、なんともはや・・・。