憲法の土壌を培養する 蟻川 恒正 木庭 顕 樋口 陽一 編著
樋口陽一先生「十九世紀後半の段階での近代国家体制を移入した日本は、その時点でのお手本を習うのに忙しく、初期近代ヨーロッパでの「公」と「私」の緊密な連関を踏まえた上での十九世紀欧州基準を受け止める、というまでにゆかなかったのは自然だったでしょう。日本の憲法学がルソーや、ましてやホッブズを意識すること少なく今日に至ったのも、やはり自然だったでしょう。
その近代日本で、廃藩置県や兵役義務制以下の一連の施策によって国民国家規模の「公」が掲げられたはずですが、幾層にもわたる私的権力が社会を支配し続けます。」
「六十年近く前の留学生としてMarcel Prélot 先生の講義を聴いた時の強い印象を思い出します。「朕は国家なり」と訳されていた"L'État, c'est moi" は、君主による国家私物化宣言であるどころか、それとは正反対に、君主こそ国家の公共性を体現する、という宣言だったのです。「私」による「公」の僭奪のきわみと言う他ない<日本という問題>に当面して、あらためて思うことです。」(p68~69)
どうやら樋口先生は、最近では”国家主義者”を標榜しているらしい。
もちろん、ここでいう”国家主義”は、一般的な理解とは異なり、「公」としての「国家」を尊重する考え方という意味と解される。
その背景には、上に引用したとおり、日本においては、「公」であるべきもの(国家、社会、etc.)が悉く「私」によって僭奪される現象が蔓延しており、それを打開するために、(ホッブズ的な解釈における)「国家」が必要であるという、樋口先生の思想があるだろう。
ここで重要なのは、樋口先生がいう所の「公」は、日本や中国における一般的な理解とは全く異なるという点である。
分かりやすい例を挙げると、「公衆便所」の「公」は、中国では「みんなの」という意味に理解されており、これが日本でも踏襲されている。
だが、西欧における「公」(Public)とは、「みんなの」ではなく、「誰のものでもない」という意味なのである(なので、日中政府がいう「公海」と、欧米諸国の政府がいう「公海 open sea」とは、意味が違っているかもしれない。)。
ここに決定的な違いがあるのだが、意外にこれが看過されてしまっているのは、漢語によって西欧の概念をあらわしてきた明治期以降の慣習の副作用かもしれない。
さて、「私」による「公」の僭奪という現象は、マクロのレベル(例えば最近の「オリンピック汚職」)だけでなく、労働現場のようなミクロのレベルでもみられるのだが(西村裕一先生の論文:p117~)、ごく最近、マクロのレベルで、大きな動き(の予兆?)がみられた。
樋口陽一先生「十九世紀後半の段階での近代国家体制を移入した日本は、その時点でのお手本を習うのに忙しく、初期近代ヨーロッパでの「公」と「私」の緊密な連関を踏まえた上での十九世紀欧州基準を受け止める、というまでにゆかなかったのは自然だったでしょう。日本の憲法学がルソーや、ましてやホッブズを意識すること少なく今日に至ったのも、やはり自然だったでしょう。
その近代日本で、廃藩置県や兵役義務制以下の一連の施策によって国民国家規模の「公」が掲げられたはずですが、幾層にもわたる私的権力が社会を支配し続けます。」
「六十年近く前の留学生としてMarcel Prélot 先生の講義を聴いた時の強い印象を思い出します。「朕は国家なり」と訳されていた"L'État, c'est moi" は、君主による国家私物化宣言であるどころか、それとは正反対に、君主こそ国家の公共性を体現する、という宣言だったのです。「私」による「公」の僭奪のきわみと言う他ない<日本という問題>に当面して、あらためて思うことです。」(p68~69)
どうやら樋口先生は、最近では”国家主義者”を標榜しているらしい。
もちろん、ここでいう”国家主義”は、一般的な理解とは異なり、「公」としての「国家」を尊重する考え方という意味と解される。
その背景には、上に引用したとおり、日本においては、「公」であるべきもの(国家、社会、etc.)が悉く「私」によって僭奪される現象が蔓延しており、それを打開するために、(ホッブズ的な解釈における)「国家」が必要であるという、樋口先生の思想があるだろう。
ここで重要なのは、樋口先生がいう所の「公」は、日本や中国における一般的な理解とは全く異なるという点である。
分かりやすい例を挙げると、「公衆便所」の「公」は、中国では「みんなの」という意味に理解されており、これが日本でも踏襲されている。
だが、西欧における「公」(Public)とは、「みんなの」ではなく、「誰のものでもない」という意味なのである(なので、日中政府がいう「公海」と、欧米諸国の政府がいう「公海 open sea」とは、意味が違っているかもしれない。)。
ここに決定的な違いがあるのだが、意外にこれが看過されてしまっているのは、漢語によって西欧の概念をあらわしてきた明治期以降の慣習の副作用かもしれない。
さて、「私」による「公」の僭奪という現象は、マクロのレベル(例えば最近の「オリンピック汚職」)だけでなく、労働現場のようなミクロのレベルでもみられるのだが(西村裕一先生の論文:p117~)、ごく最近、マクロのレベルで、大きな動き(の予兆?)がみられた。