「弁護士任官して驚いたのは、裁判官同士の親類縁者が実に多いと知ったことである。
珍しい高貴な名字の明らかな名家の出身者同士であれば、一目瞭然で推測できるのだが、最近は、裁判所でも婚姻後も旧姓の通称使用がほぼ認められていることもあって、氏名だけでは気が付かない。ここは、キャリア裁判官の間では、それまでの見聞で大体知られているようだが、門外漢の弁護士任官者にとっては鬼門である。会話の中で、そこにいない裁判官の批評も迂闊にはできない。目の前の裁判官が親族かもしれないからである。・・・
それはさておき、裁判官が裁判官の子どもという例は最近目立つように思う。かつての寺田治郎最高裁長官の息子さんも最高裁長官になったのが代表格であるが、数えれば一体何組あるのか分からない。」(p62~63)
世間には余り知られていないが、裁判所内部には「親族」が多い。
弁護士業界はもっと多いのだが、検察官はちょっと違うように思う。
検察官の場合、世襲よりも「閨閥をつくる」例が多いようで、「閨閥組」なる言葉が存在する。
いずれにせよ、法曹界全般が「イエ」原理に侵蝕されてしまっていることは間違いなさそうだ。
こうした「ラット・レース」と「イエ」化は、一見すると矛盾しているかのようだが、そうではない。
「信用崩壊」から生じた「自己犠牲の強要」の一表現である「ラット・レース」と、日本の伝統的な集団組成原理である「イエ」とは、完全に両立するからである。
むしろ、この半世紀くらいの間で、この両者が車の両輪となって、「新階級社会」をつくり上げたというのが実態だと思う(カイシャ人類学(17))。
分かりやすい例として、医師の業界を挙げてみる。
「日本の大学の医学部入試では必ず面接が行われている。一体なぜなのか。医師の和田秀樹さんは「たった数十分の面接で医師の適性があるかないかを見抜けるとは思えない。実際は、医学部の教授たちが、自分たちの地位を脅かしたり、メンツを潰したりするような異分子となりそうな人物を排除する手段なのではないか」という――。・・・
教授たちに迎合することで無事に面接を突破した受験生たちが医学部生となり、やがては教授たちの思惑通り「共感脳」だけがやたらと高くて周りに合わせられる医者として育っていきます。これでは古い常識がいつまでもまかり通り、進歩もしないし、変革も起こらないのは当たり前でしょう。すべての医学部の入試に面接を課すことは、自分の子どもを医学部に入れたいと考える多くの医者の口を封じるうえでも有効です。何せ入試の面接官は医学部の教授が務めるわけですから、彼らの機嫌を損ねるようなことをするのは、とても勇気のいることなのです。」
医者になるまでの過程が「ラット・レース」であることは周知のとおりである。
だが、他方において、世襲化の傾向は外交官並みに著しい。
これはどういうことだろうか?
和田先生は、やや遠回しな表現で、「面接が行なわれるのは、『自分の子どもを医学部に入れたいと考える医者』のためでもある」ことを示唆している。
「外交官試験」と同様、「ラット・レース」の中に、ペーパー・テストだけでなく、「よそ者」を排除して「身内」を招き入れるための面接を挿入するわけである。
要するに、「ラット・レース」と「イエ」化とが見事に両立しており、これによって「世襲貴族」という階級が盤石に築かれたのである。