森嶋先生の”予言”はまだまだ続くのだが、ここで既に大きな地雷がいくつか出て来たので、今のうちに処理しておくのがよいと思う。
(1)「日本は儒教国家」、「日本人が無宗教である」、「なにか抽象的・超越的なものに対する義務感や責任感」、「抽象的なプリンシプルに対する畏怖心」
森嶋先生がクリスチャンであったかどうかは分からないが、ここで念頭に置かれているのは、明らかに「神」のことである。
イギリスを始め西欧には「神」という超越的な存在があり、それに対する「義務感や責任感」が労働者ひいては社会全般に浸透しているという見方である(「社会的な義務」は、おそらく「神」に奉仕する限りで正当化されるということなのだろう。)。
これに対し、森嶋先生は、日本にはプロテスタンティズムの「倫理」の代わりに「儒教」の倫理があるというようだ。
だが、私見では、この見解は正しくない。
「日本人が無宗教である」というのは明らかな誤りであり、「なにか超越的なものに対する義務感や責任感」は、おそらく常に存在してきたからである。
「超越的なもの」というのは、一言で言えば「祖霊」であり、日本人においてマジョリティを占める宗教は、(森嶋先生が指摘した「儒教」(但し、先生は「宗教」に含まれないと考えている模様)ではなく、)「イエ」である(カイシャ人類学(8))。
(2)「では彼らは家に帰って何をするか。テレビの前に座って、多少なりとも気紛れにボタンを押してチャンネルを選ぶ。」、「夕食後の家庭生活も、多かれ少なかれ似通っている。ここでもまた、機械のために、家族員相互間に疎外現象が生じる。家族員同士の会話が殆どないからである。」
ここには、真面目な人ほど陥りやすい、「若い人々を押し潰す、 réciprocité の抑圧スパイラル」という落し穴がある(若い人々と抑圧スパイラル)。
若い人々のことを批判するのは生産的でないし、知らないうちにレシプロシテ原理の罠にはまっているおそれがある。
そもそも、「テレビ鑑賞」は、息抜きとしては有意義なのかもしれないし、「息抜き」の時間は、どの世代の人間も必要としていたはずだ。
例えば、かつての知的階層が「息抜き」の時間を持たなかったかと言えば、全くそうではない。
一つだけその例を挙げてみる。
「三田での講義は、どれを聴いてもそれまでとは違って、やはり「大学」の味を感じたが、特に慶應義塾大学には経済史の特殊講義として、日本経済史の他、産業別の講義があり、他のどの大学より多くの講義が並んでいたのではなかろうか?・・・こうなると、予科時代と違って講義をサボることはせず、出席するのが当たり前の学生になっていた。あれほど熱中していた麻雀熱もいつしか醒めていったし、雀友のE君も、千葉大学の医学部に入学していたから、麻雀どころではなくなっていた。」(p140~141)
わが国における歴史人口学の泰斗、速水融先生ですら、十代後半のころは、講義をサボって麻雀に熱中していた時期があるのだ。
もっとも、森嶋先生の指摘を受けて改めて発見したのは、「日本の若者は、どんどん”自発的な”読書をしなくなってきている」ということである。
麻雀に耽溺したという速水先生も、他方において、自分の部屋で行う読書やレコード鑑賞を「息抜き」(!)と考えていた。
つまり、読書の中には「息抜き」となるような、愉しみを与えてくれるものもあったのである。
この点に関して言えば、私は、いわゆる現在のエリートたち(大手法律事務所のパートナー、中央官庁の幹部など)の若い頃のライフスタイルについて、100%確実な証言をすることが出来る。
「100%確実」というのは、現に見ているからである。
大半のエリート(の卵)たちは、一日のうち最も多くの時間を学校の勉強や(自宅・予備校での)試験勉強に充てるが、睡眠・食事などを除いたそれ以外の自由時間の大半を、「マンガ本を読む」、「テレビを視る」、「コンピュータ・ゲームをする」ことに費やすというものだった。
同世代でよく見たのは、時代を反映してか「マンガ本を読む」である(なので、中央官庁の審議官・課長クラスの人間が自分の知らない分野・業界の情報を入手する際に真っ先に行うのは、たいていの場合、関係のありそうなマンガ本を読むことである。)。
つまり、「本を読む」時間は極めて少ない。
したがって、森嶋先生のいわゆる「超越的な存在」に接近することはまずないということになる。
・・・あと、もう一つ、大きな地雷が埋まっているようだが、それは何だろうか?