Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

面晴れとしての子殺し

2025年03月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「初代国立劇場さよなら特別公演以来となる通し上演にて、「王代物(おうだいもの)」の傑作『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』を3部制で上演します。敵対する2つの家の子供同士が惹かれ合う“日本版『ロミオとジュリエット』”とも称される場面が中心の第一部、帝側への復権のためわが子を犠牲にした旧臣とその家族の悲劇を大和地方の伝説を背景に描く第二部、身分違いの恋をする一人の娘が政争の渦に巻き込まれていく第三部と、通しでのご鑑賞はもちろん、各部のみでもお楽しみいただける構成でご覧いただく公演です。

 2月の国立劇場・東京の文楽公演は、「妹背山婦女庭訓」の通し。
 近松半二の作品は、観ていて気分が悪くなるような、病的でグロテスクなストーリーのものが多いが、これはその筆頭に挙げてよい。
 令和5年にも上演されたが、どうやら主催者は、江戸時代の社会の闇を代表するこの作品が好きらしい。
 第一部は都合がつかず観に行けなかったのだが、第二部と第三部を鑑賞。
 第一部(9月のポトラッチ・カウント(6))と第三部(6月のポトラッチ・カウント(3)) は昨年歌舞伎座で上演されたが、「鹿殺しの段」及び「芝六忠義の段」を含む第二部は私も初見である。
 漁師の芝六(実は鎌足の家来:玄上太郎)は、蘇我入鹿を倒すために必要な鹿の血を得るため、長男(義理の子)・三作を連れて森に狩りに出かけ、「爪黒の牝鹿」を射殺した。
 だが、当時奈良の鹿は神聖な動物とされており、殺せば死刑(石子詰の刑)が待っていた。

芝六忠義の段
 「そうこうしていると、杉松に連れられた興福寺の衆徒が門口へやってきて、鹿殺しの犯人として三作を捕まえる。・・・仲間の衆の取り調べが行われたり、芝六の難儀になってはいけないので名乗って出ると言うのだ。以前から義理の父・芝六に大切に孝行するように言われていた三作はお雉の言いつけ通りにしたのだった。三作は父が悲しまないよう自分は京の町へ奉公に行ったと伝えた上で、杉松をふたりぶん可愛がり、弟には狩人をさせないで欲しいと頼む。お雉は三作の立派さに泣きじゃくり抱きしめるが、衆徒たちは明け六つの鐘を合図に三作を石子詰の刑にすると言って引っ立てて行った。
 お雉が泣き伏していると、酒に酔った芝六が上機嫌で帰ってくる。芝六は酔い覚ましに冷える地面に寝ているのかとお雉にじゃれつくが、お雉は泣くばかり。芝六が彼女を泣き上戸と言ってなおもふざけかかると、お雉は泣き顔を取り繕い、さきほどの捕手の始末はどうなったのかと尋ねる。芝六は詮議を無事言い抜けてきたと答え、明け六つの鐘が鳴れば鎌足の勘当が解けてかねてからの願いが叶うと、酒屋を叩き起こして酒を飲んできたと言う。三作を探す芝六の姿にお雉は胸が張り裂けそうになり、三作は猟に出かけたと話す。
・・・芝六は果報は寝て待てとして、杉松を抱いて布団に入る。
 お雉は夫の嬉しそうな寝顔を見ながら、真実を告げれば三作の思いも無駄になり、夫の命が危険にさらされるが、しかし三作も可愛いとして心が乱れる。そのうちに興福寺の鐘が鳴りだし、一つ、二つ、三つ、四つ、五つと鳴るうち、お雉は三作を案じて斧鉞に打たれる心地になる。六つ目の鐘が鳴ったとき、わっという叫び声が聞こえる。見ると芝六が刀で杉松の喉を畳まで突き通しており、布団は血に染まっていた。動転するお雉に、芝六は理由を語り始める。先ほどの捕手は玄上太郎の心を試すための鎌足の使者であり、それに気づいていながらも人質に心が迷った自分は重ねて疑われてしまった。勘当を赦されずとも、真実は他言しないという心を実の息子を斬ることで証明すると。杉松のことは侍の義理だと思って諦め、三作をそのぶん可愛がって欲しいと言い、芝六は伏して泣く。しかしお雉はその三作は鹿殺しの犯人として連れられて行ったと嘆く。

 初っ端から、父(芝六)を鹿殺しの罪から守るため身代わりを買って出た三作によるポトラッチが炸裂する。
 他方で、鎌足が芝六を試すため偽役人を遣わしたことに気付いた芝六は、何と、
 「「根性を見下げられた」と感じて、面晴れのために実子杉松を殺す
のだった(筋書p59)。
 これもポトラッチと見てよいと思うが、「面晴れ」(疑いを晴らすこと)のために我が子を手にかけるとは、恐ろしい時代である。
 この後、三作は、なぜか殺されずに帰って来る。
 石子詰のために掘った土中から、蘇我蝦夷(入鹿の父)が天皇家から盗んだ神鏡と勾玉が見付かったため、三作は助かったのである。
 さらにその後、(今回は上演されないが)叢雲の宝剣も鎌足が手中に収め、「三種の神器」は天皇家の元に戻る。
 ・・・というわけで、近松半二を評価すべきとすれば、”ゲノム至上主義”の克服の点、すなわち、
① 芝六と(血のつながらない)三作との連帯
② (神武天皇の)ゲノムではなく、「三種の神器」こそが天皇たる地位を正当化するものだという思考
くらいだろうか?



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