「・・・江戸城の実際に起きた背景をちょっと理解して頂ければ、この舞踊劇がより楽しめるものかと思います。」(2分18秒付近~)
夜の部の二本目は菊之助と七之助らによる所作事「江島生島」。
江島は江戸城大奥御年寄。
6代将軍・家宣の側室で7代将軍・家継を産んだ月光院付きの女中から事務方トップの地位に昇り詰めたやり手である。
江島は、正徳4(1714)年、月光院の名代として徳川の菩提寺である芝・増上寺へ参拝に出向いたのだが、その際、歌舞伎役者の生島が出演していた山村座を覗いたことが、この悲劇を生むこととなった。
江戸時代の実話に基づく作品で、事実関係についてよく調べた記事を発見した。
「・・・観劇に夢中になっているうち、大奥の門限である暮六つ(午後6時)を過ぎてしまった。城に帰ったものの、大奥の玄関口は閉じられている。絵島は門番と「通せ」「いや、通せません」と押し問答になった。何とか通してもらったものの、騒ぎが知れ渡るのは時間の問題だった。
観劇後に茶屋で宴会も催され、絵島はしこたま酒を飲み、その席には鑑賞したばかりの芝居の役者・生島新五郎も呼び出されて参加したという。
だが、これは確証がない。
いずれにせよ、絵島は門限に遅刻した。そして、観劇した芝居の演者が当世とっての人気者だったことが、大問題へと発展していくのだ。・・・
絵島は厳しい尋問にも屈せず、断固として男女関係を否定した。・・・誰が自白したかは定かではないが、調べの結果、絵島と新五郎は流罪に処されることが決まった。幕閣からは「死罪が妥当」という強硬意見もあったらしいが、「その罪重々に候といえども御慈悲によって命助けおかれ」と『絵島断罪事略』にある。慈悲とは、おそらく主人の月光院からの助命嘆願だろう。そして、絵島は信濃の譜代・高遠藩幽閉となる。
一方の新五郎は、三宅島への遠島だった。・・・」
何のことはない。
現代でも大きな社会問題であり続けている「冤罪」事件の疑いが強いのである。
これについては、幕府の権力闘争が背景にあるという説がある。
「7代・家継の生母として権勢を誇っていた月光院と、後継者を産めなかった正室の天英院。それぞれと関係が深い幕閣同士は、熾烈な権力闘争を繰り広げていた。・・・
そんな折、月光院付きの奥女中が、門限破りという失態を犯したのだから、利用しない手はない。月光院派を追い落とすために騒ぎを大きくし、最終的に「密通」に仕立て上げた—これが最近の説である。
事実、事件後には月光院・間部・白石の権勢は衰える。
同時に7代・家継が病弱で数え8歳で夭折したことから、天英院が推す紀州藩主・徳川吉宗を第8代将軍に擁立する動きが出てくる。間部や白石が権力を維持したままだったら、将軍・吉宗の実現は困難を極めた可能性がある。
家康以来続いていた宗家の血筋が途絶え、初めて御三家出身の将軍が誕生するというエポック・メイキングな出来事に、絵島生島事件は少なからず影響を及ぼした。シリーズ第1回で紹介した大奥の創設者・春日局の計画、つまり徳川宗家の胤(たね)を存続させ、そこから将軍を誕生させる目論見は、ここで頓挫したことになる。御三家出身の吉宗が将軍に就いたことで、幕府と大奥は新時代に入っていく。」
つまり、「江島生島事件」によって、家康の”ゲノム(徳川宗家の胤)承継”が途絶えてしまったのである。
何という日本史における大事件!!!
もっとも、当時の旗本のうち約4分の1のイエにおいて「養子相続」、つまり”ゲノム承継”を伴わない相続がなされていたのであり(5月のポトラッチ・カウント(5))、結局、徳川家もその例外ではなかったということなのだろう。
所作事だからといって、法学的・社会学的観点を離れて純粋に観劇を楽しんでいる場合ではないのである。