Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

レパートリー

2024年10月11日 06時30分00秒 | Weblog
伊福部昭:舞踊曲「サロメ」から"7つのヴェールの踊り"
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番”ラルゴ”(ヴァイオリン・アンコール)
ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 作品27 

 私にとっては久々の読響だが、久々という感じがしなかったのは、ヴィオラの鈴木康浩さんの顔を、つい先日のARK クラシックスで見ていたからかもしれない。
 伊福部さんの「サロメ」は、個人的にはR.シュトラウスの作品よりもドラマティックで親しみが持てた。
 こういう曲をときどきやってもらいたいものである。
 ついでに言えば、アンコールで「ゴジラのメインテーマ」をやってくれればなお良かったと思う。
 クリスティアン・テツラフは、私は初見だが、ほぼ終始目を瞑ったままの演奏スタイルが渋い。
 こういう初老でヒゲをはやしたヨーロッパ人をみると、「ザ・ヴァイオリニスト」という気がする。
 個人的には、甘ったるい2楽章は好きでないが、ハイテンポでダンサブルな3楽章は好きなので、全体としての評価が難しい曲である。
 ラストはラフマニノフ2番。
 3楽章はポップス化されている有名なメロディーを含んでおり、始まった途端ニヤニヤしてしまう。
 それにしても、ヴァイオリン奏者の腕前が見事なことに驚く。
 というか、ラフマニノフ2番は読響の十八番のレパートリーなのではないかと感じるほど、しっくり来たのである。
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祖霊としての長州藩士、あるいは真の総理大臣任命権者

2024年10月10日 06時30分00秒 | Weblog
 「自民党総裁選に出馬している高市早苗経済安全保障担当相は25日のBSフジ番組で、首相に就任した場合の靖国神社参拝について「適切な時期に普段通り、淡々とお参りしたい」と述べた。「靖国神社は戦争を美化する施設でなく、外交問題にされるべきではない。自分の気持ちに正直でありたい」と語った。高市氏は春・秋の例大祭と終戦の日に参拝してきた。

 高市氏は、
 「国策に殉じられ、祖国を守ろうとした方々に敬意を表し続けるのは希望するところだ
と述べる。
 ここで矛盾があると思うのは、合祀されている14人のA級戦犯(A級戦犯合祀問題)が「国策に殉じられ、祖国を守ろうとした方々」に当たるのかという問題について、触れていないからである。
 だが、私見では、高市氏は、自分が総理大臣になるためには、”祖霊ナイン”による裁可が必要であることを、無意識のうちに認識していると思う。
 この、”祖霊ナイン”による裁可を意味する象徴的な儀礼こそが、「靖国神社公式参拝」なのである。
 誇張して言えば、憲法6条の存在にもかかわらず、真の総理大臣任命権者は、長州藩士の祖霊なのである。
 ここで、歴代首相のうち、靖国神社を公式参拝したのが誰かを押さえておく。
 このうち、赤で示したのは、”祖霊ナイン”の子孫にあたる人物のうち長州閥系、青で示したのは薩摩閥系である。
① 東久邇宮稔彦王
② 幣原喜重郎
③ 吉田茂
④ 岸信介
⑤ 池田勇人
⑥ 佐藤栄作
⑦ 田中角栄
⑧ 三木武夫
⑨ 福田赳夫
⑩ 大平正芳
⑪ 鈴木善幸
⑫ 中曽根康弘
⑬ 橋本龍太郎
⑭ 小泉純一郎
⑮ 安倍晋三

 こうやって見ると分かるが、15人中9人が”祖霊ナイン”の子孫であり、このうち7人までもが長州閥の系譜に属している。
 この理由について、私は、靖国神社の淵源が、高杉晋作がつくった「招魂社」にあるからだと考える。
 私見では、高杉は、当初、毛利家の祖霊(たち)と並んで、あるいはこれと合一化して、「神」になろうとしたと思われる(カイシャ人類学(20))。
 もっとも、靖国神社となった後は、嘉永六年(1853年)以来の維新殉難者である彼自身と、その師である吉田松陰や坂本龍馬などの幕末の志士たちが祀られた。
 つまり、当初の意に反して、毛利家の祖霊(たち)ではなく、吉田松陰や志士たちと合一化して「神」とされたのである。
 余談だが、安倍晋三の「晋」は、「高杉晋作からもらった」のだそうである(「名前の『晋』は高杉晋作からもらったんだ」 安倍元首相、いつも心に古里・山口【悼記】)。
 そして、戦後の歴代総理大臣であって、”祖霊ナイン”の系譜に属しない人物(⑦、⑨、⑩、⑫、⑭)の場合、病気で急逝した⑩(大平正芳)を除けば、全て長期政権となっているのである。
 他方、靖国神社に公式参拝しなかった人物の政権は、ほぼ短命に終わっている。
 何が言いたいかと言うと、
 「靖国神社公式参拝をすれば、”祖霊ナイン”の子孫でなくとも、比較的長期に亘って総理大臣で居続けることが出来る
ということである。
 この仮説が正しいとすれば、また、高市氏は安倍晋三氏を尊崇しているらしいので、長期政権を築きたいと希望するのであれば、彼女が靖国神社に公式参拝するのはもっともなことなのである。
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無事之名ダンサー

2024年10月09日 06時30分00秒 | Weblog
本公演に出演を予定しておりましたワディム・ムンタギロフは、怪我のため出演を見合わせることになりました。代わりまして、リース・クラーク(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)が出演することになりました。クラークは、本公演でドロテ・ジルベールと共演いたします。 
そして出演を予定しておりましたナタリア・オシポワは、手術後の回復が遅れ出演を見合わせることになりました。代わりまして、オクサーナ・スコーリク(マリインスキー・バレエ団プリンシパル)が出演することになりました。スコーリクは、ウラジーミル・シクリャローフと共演いたします。
本公演に出演を予定しておりましたオクサーナ・スコーリクは、急病のため来日を見合わせることになりました。スコーリクの出演を楽しみにお待ちいただいておりましたお客さまには大変申し訳ございませんが、ご理解賜りますよう、何卒お願い申し上げます。
東京文化会館公演に出演を予定しておりましたウラジミール・シクリャローフは、腰痛が悪化し治療しておりましたが、万全の体調に回復することができず、全ての公演にて降板することになりました。
楽しみにされていたお客様には大変申し訳ございませんが、ご理解賜りますよう、何卒お願い申し上げます。

 2022年に開催された「スーパースター・ガラ」(軟体動物)の再演。 
 目玉はやはりスヴェトラーナ・ザハロワなのだろう。
 というのも、今回は、

・ワディム・ムンタギロフ(→リース・クラークへ)
・ナタリア・オシポワ(→オクサーナ・スコーリクへ)
・オクサーナ・スコーリク(→降板)
・ウラジミール・シクリャーロフ(→降板)

という出演者の大幅な変更があったにもかかわらず、お客さんの入りは上々だったからである。
 つまり、大半のお客さんは、やはり「ザハロワの白鳥が観てみたい!」からチケットを買っているのだろう。
 実際、今回の彼女のパフォーマンスは素晴らしく、指先から爪先まで身体のすべてを使って瀕死の白鳥を表現していた。
 もはや、(時々言われるように)”憑依”というほかない境地であり、おそらく他のダンサーも舌を巻いていることだろう。
 実際、2021年の世界バレエフェスティバルのときは、他のダンサーたちが舞台の袖に集まって、彼女の演技を注視していたそうである。
 ザハロワ以外だと、私の大好きなドロテ嬢がロイヤル・バレエのリース・クラークと楽しそうに踊っていたのが良かった。
 私は、ドロテ嬢を観るたびに幸福感に浸れるのである。
 また、水野さんのキトリのグラン・フェッテも完璧で見応えがあった。
 ・・・それにしても、つくづく思ったのは、バレエダンサーは、とにかく病気や怪我をしないで、良好な状態で踊れることが一番重要だということである。
 競走馬ではないが、「無事之名ダンサー」なのである。
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眠りを覚ます海の人魚

2024年10月08日 06時30分00秒 | Weblog
 「・・・海中に戻ったマーメイドは王子を想っている。仲間であるクマノミ、サンゴ、ロブスターたちに「恋をしているの」と打ち明ける。マーメイドは海の底に落ちていた王子の短剣を見つけ、王子と人間界への憧れはますます募っていく。父は激怒するが、マーメイドの理解者である叔母が、シャークの元に行けば、人間界に行ける方法を教えてもらえるとマーメイドに伝える。シャークに会いに行ったマーメイドは、声と引き換えに脚を授かる秘薬をもらう。しかしこの約束には「愛が実れば魂を得られるが、そうでなければ泡になってしまう」という条件があった。マーメイドは意を決して地上へと向かう・・・。

 毎回思うことだが、K-Balletの新作は、舞台装置や衣装に目を奪われてしまう。
 コリオも毎回新しいものが登場し、今回は、王の友人(?)やトビウオ(?)の繰り返される高いジャンプが見ものである。
 さて、「人魚姫」のラストを覚えている人は少ないと思う。

 「こんなラストだった!
 人間の足を手に入れた際、人魚姫にはある制約がかけられていました。それは王子が別の女性と結婚した場合、人魚姫は海の泡になって消えてしまうというもの。それを不憫に思った人魚姫の姉たちは、魔女と取引し魔法のナイフを手に入れ、人魚姫に与えます。魔法のナイフで王子の胸を刺し、その返り血を浴びれば人魚の姿に戻れるというのです。
 しかし結婚が決まり幸せそうな顔で眠る王子を前に、彼女はついにそのナイフを使うことはできませんでした。遠くの波間にナイフを投げ捨てるとみるみるうちに海は赤く染まりました。赤い海に身を投げた人魚姫は、そのまま海の泡となって空高く昇っていくのでした。
 泡になって消えたかと思われた人魚姫は、その後、風の精霊となって人々に幸せを運んでいくという結末でしたが、「海に身を投げて泡になった」や「風の精霊となって善行をした」というストーリーを覚えている人は少ないのではないでしょうか。

 このラストが、普通の子供の心に長く残るはずがないだろう。
 なお、K-Ballet版では、ハッピー・エンドに改変されている。
 ・・・ここで私は、ある種の既視感を抱いた。
 「これは、海中版の『眠れる森の美女』ではないか?
 つまり、「(王子を)目覚めさせる海の人魚」というお話なのではないか?
 まあ、それが当てはまるのは前半だけかもしれないが・・・。
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人間関係のレジリエンス

2024年10月07日 06時30分00秒 | Weblog
 「英国マンチェスター郊外のストックポートで暮らす、ホームズ家の物語。家の修理工のピーターと妻アリス、彼らの二人の息子、そしてピーターの父と母。ピーターの長男アレックスに恋人が出来、そのことに15歳の弟の胸はざわめく。また、ピーター夫婦とその父母たちは小さな不満を感じながら生活をしている。そんな時、ある事故をきっかけに家族それぞれの思いがすれ違っていく。結びつきを失った三世代の家族の再生を描く─
 昴と演出家・眞鍋卓嗣との初タッグで、今年の昴公演のテーマ「家族」を映す今作に挑みます。

 サイモン・スティーブンスの芝居を観るのは「彼方からのうた」(限りなく低い「愛」のハードル(1))に次いでこれが2回目。
 「広い世界のほとりに」はかなり長い芝居で、ドラマティックというわけでもないので、刺激を求める人はちょっと退屈するかもしれない。
 テーマは結構難しく、私もちょっと自信がないのだが、「家族、恋人などの人間関係のレジリエンス」ではないかと思う。
 ネタバレになるので、ストーリーは詳しく書けないのだが、ホームズ家は以下のとおり、一旦みんなバラバラになってしまう。

ピーター・ホームズ:江崎泰介 ・・・家長としての孤独の中で、妻の浮気を疑って苦しむ。
アリス・ホームズ:落合るみ・・・夫と上手く行かない上に事故で息子を失い、 知り合った男と親密な関係になる。
チャーリー・ホームズ:金尾哲夫・・・老いのためか暴力的な言動が増え、妻を苦しめてしまい、さらにガンの疑いで検査入院する。
エレン・ホームズ:姉崎公美・・・長年チャーリー一途に尽くしてきたが報われず、息子(ピーター)の待遇を巡って嫁(アリス)とも対立してしまう。
アレックス・ホームズ:笹井達規 ・・・恋人のサラと一緒に突如家を飛び出してロンドンで暮らし始める。当然、母を始め家族は激怒する。
クリストファー・ホームズ:福田匡伸 ・・・アレックスの弟で、兄に恋人(サラ)が出来たので喜びに浮足立つが、交通事故で亡くなってしまう。
サラ・ブラック:賀原美空・・・アレックスの恋人で、彼と一緒にロンドンに駆け落ちするが、滞在先が火事で全焼して住まいを失う。

 現実の社会では、ピーターとアリス夫妻、チャーリーとエレン夫妻、クリスとサラは、離婚又は別離という結末に至ることが多いだろう。
 だが、この芝居では、3組のカップルは、関係を修復出来てしまうのである。
 登場人物たちは、一旦「広い世界のほとり」までたどり着いたものの、結局もとの場所に戻って来ることを決断するという行動をとるという点では一致する。
 この内面の振り子運動こそが、この芝居の要であると思う。
 私見では、おそらく言葉では表現するのが極めて難しいところであり、役者の実力が試されると思う。


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虚構が現実を浸食する

2024年10月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「今や映画監督としても活躍する、イギリスの劇作家マーティン・マクドナーの代表作の一つ『ピローマン』。架空の"独裁国家"で生活している兄と弟。作家である弟が書いたおとぎ話の内容がやがて彼らの現実を侵食し......。理不尽な体制の中で「物語」が存在する意義とは何かを問いかけます。
 2024/2025シーズンのオープニングは、2004年のローレンス・オリヴィエ賞、04-05年のニューヨーク演劇批評家協会賞を受賞したマクドナーの傑作を、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子の翻訳・演出で上演いたします。
 「ご観劇前にご確認ください
<トリガーアラート>
本作には、フラッシュバックに繋がる/ショックを受ける懸念のある場面・表現が含まれます。
児童虐待、性的虐待、暴力、殺人、流血、銃声、差別的な表現

 私が観たのはプレビュー公演だったのだが、普通に仕上がっており、アクシデントが起きたり進行が澱んだりするような場面はなかった。
 ネタバレになるのでストーリー(念のため注意しておくと、暴力や殺人などのシーンが多いため、フラッシュバック等のおそれのある人は注意した方がよいと思う。私でも観ているのが結構辛いシーンがあった。)は書けないのだが、ざっくり言うと、上に引用したとおり、
 「作家である弟が書いたおとぎ話の内容がやがて彼らの現実を浸食
するというもの。
 残虐なシーンも、「これはお芝居だから」という一言で片づけてしまうのが一般的だろうが、このストーリーの内部ではそうは行かなかった。
 虚構が現実のものとなってしまったからである。
 この、「虚構が現実を浸食する」という話で真っ先に想い浮かぶのは、バルザックが発した臨終の言葉である。

ビアンション!ビアンション(自作小説中の医者)を呼んでくれ!
 あいつなら、私を救ってくれる……。
byバルザック(仏・作家)

 バルザックは、死に直面して、現実と虚構(自作小説)の境界が分からなくなってしまったのである。
 対して、我が国を見ると、私の知る限り、バルザック的な言動の例はちょっと見当たらないと思う(実際はあるのかもしれないが・・・)。
 ただ、ある意味ではバルザックに近いと思われるのが、いわゆる「三島事件」である。
 どういうことかと言うと、三島は、
 「小生はどうあっても文人としてではなく武人として死んだ証拠が欲しいのです
という手紙を残してはいるものの、その最期は、彼が書いた小説「」と「憂国」をミックスさせたストーリーのようにも見えるのである。
 これも「虚構が現実を浸食する」例の一つではないだろうか?
 

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ショパン・コンクールの覇者(7)

2024年10月05日 06時30分00秒 | Weblog
モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第11番イ長調 K331
・ピアノ・ソナタ第8番イ短調 K310
・ピアノ・ソナタ第14番ハ短調 K457
・幻想曲ハ短調 K475
他 
<アンコール曲>
・中国作品:彩云追月
・ショパン:ノクターン第2番 変ホ長調 Op.9-2 
 

 2000年開催のショパン・コンクールの覇者:ユンディ・リのリサイタル。
 この人の演奏を聴くのは初めてである。
 モーツァルトのソナタのうち私が一番好きなのは8番。
 ミスタッチがチラホラあるものの、丁寧かつ力強い演奏で好印象である。
 手元にはリリー・クラウスと藤田真央さん(Piano Sonata No. 8 in A Minor, K. 310: I. Allegro maestoso)のCDがあるが(若い頃よく聴いていたのはグールドの演奏だった(残念ながらCDは行方不明)。)、テンポやニュアンスは藤田さんの方に近いようだ。
 ちなみに、引用したサイトには「他」とあるが、私の記憶が正しければ、ソナタ第14番と幻想曲ハ短調の曲順が入れ替わっていただけで、演奏されたのは4曲だったと思う。
 ところで、会場に着いてすぐ気づいたのは、中国語の会話が飛び交っていること。
 見たところ、半分以上が中国人のように思える。
 小中学生程度の女の子が多く、終演後、ユンディに花束やぬいぐるみを手渡していた。
 どうやら、彼は(例の事件のため)中国国内ではリサイタルが開けないのだろうか、中国の応援団(?)が海外までやって来ているらしいのである。 
 もっとも、応援団はクラシックに詳しい人たちかというと、必ずしもそうではないことが分かる。
 というのは、ソナタの1楽章が終わった直後に拍手を始めてしまうので、ユンディから制止される場面が2回ほどあったのである。
 
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ラスト・ダンス

2024年10月04日 06時30分00秒 | Weblog
 「「だから踊ろう... !」は、コロナ禍のもとでカンパニーを率いていたジル・ロマンが、困難な状況下で“踊る喜び”を表現することを念頭に創作。ロマンは「そのダンスの喜びを体現」し2021年に没したダンサーのパトリック・デュポンに本作を捧げています。
 これに続くのはベジャール珠玉の3作。「2人のためのアダージオ」は1986年初演の「マルロー、あるいは神々の変貌」からの抜粋で、ベー トーヴェンのヴァイオリン・ソナタにのせて、兵士と”死”を象徴する女の感動的なダンスが踊られます。「コンセルト・アン・レ」は、ストラヴィンスキーの同名の ヴァイオリン協奏曲ニ調を、一組の主役ペアと男性ソリスト、女性群舞で視覚化するベジャールには珍しいネオ・クラシカルなバレエ。フィナーレには規律から脱したダンサーたちが祝祭的なダンスを繰り広げます。そしてプログラムの掉尾を飾るのが「ボレロ」。

 Bプロの最初の演目は、ジル・ロマン振付の「だから踊ろう... !」。
 意外にも古典バレエのテクニックを中心に構成されたシンプルなコリオで、
 「純粋に踊る喜びだけを目的とした・・・」
作品だそうである。
 次は「2人のためのアダージオ」で、エリザベット・ロス&ジュリアン・ファヴローの2枚看板によるデュオ。
 ジュリアン「私が演じる兵士が、死を象徴する役のエリザベットから死ぬ前に最後の煙草をもらって一服し、ちょっとホッとする場面を経て死を迎えるというもので、経験豊かで成熟したダンサーが踊るにふさわしい作品と言えるでしょう。
 芸術監督に就任したばかりのジュリアンは、膝やアキレス腱の損傷などから引退を考えていたそうで、日本でのダンスはこれが最後ということのようだ。
 続く「コンセルト・アン・レ」は、コリオだけ観ているとベジャール作とは思えない「ネオ・クラシカル」な作品。
 配役に注目すると、主役=カップルのカテリナ・ケビキナとオスカー・フレイムは、いずれも昨年入団したばかりの、ロシアン・バレエにルーツを持つダンサーである。
 すなわち、カテリナ・ケビキナはウクライナ出身でウクライナ国立バレエ団、マリインスキー・バレエという経歴で、対するオスカー・フレイムは、イギリス出身だがワガノワ・バレエ・アカデミーで学んだ後ボリショイバレエ団に入ったという、ゴリゴリのロシア派である。
 この2人は基礎が盤石だし、作品のテーストともマッチしているので、気持ちよく観ていられる。
 ラストはおなじみの「ボレロ」で、メロディは大橋真理さん。

 「初めに「ボレロ」を踊ったときの闘いは、まさにそれでしたね。自分に集中しようと思っても、ほかの人と比べられる。何より観客の期待度が高いですから。それに私自身、長年観続けてきた作品だからこそ、自分の中に彼らのイメージが強く残って払拭できなかった。最初は無意識のうちに先輩ダンサーたちのイメージに近付こうとしていました。しかしあるときジルに「彼らは彼らの仕事をやってきた。君は君しかできない仕事をやらなければ『ボレロ』を踊る意味がないよ」と言われ、そうなんだなと感じました。どんなに近付こうと思っても身体も違えば国籍も違うしジェンダーも違います。私は自分の強みを探して、それを生かす「ボレロ」をやっていかなければならないとハッとさせられました。

 大橋さんの「ボレロ」は初めて観たが、今まで観た中では間違いなく「一番可愛らしい」ダンスである。
 「世界バレエフェスティバル」の「バクチⅢ」のときは結構大柄に見えたのだが、リズム役の男性たちが大きいせいか、今回の大橋さんはかなり小柄に見える。
 ジュリアン・ファヴローがライオンだとすれば、大橋さんはミーア・キャットというイメージだろうか。
 大橋さんの「ボレロ」で私が気付いた特徴は、一つ一つの動きが端正なところと、顔(表情)に力を込めているところである。
 どの演目もそうだが、顔(表情)もダンス表現の一部なので、ここに注目すべきなのだ。
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ソロとコール・ド

2024年10月03日 06時30分00秒 | Weblog
 「アカデミー賞4冠を獲得した映画「ボヘミアン・ラプソディ」(2018)で再び注目を浴び、以後2度にわたる来日公演も話題を呼んだ世界的ロックバンド、クイーン。現代バレエ界の巨匠モーリス・ベジャールが、そのクイーンの音楽を使って、ロックとバレエを融合させた奇跡のステージが「バレエ・ フォー・ライフ」です。

 前回:2021年の来日公演でも上演された演目。
 もちろんどの曲も印象深いが、前回最も強烈な印象を残したのは、”Radio Ga Ga” だった(第三のステージ)。
 今回も同様の印象を抱いたのだが、今回、ソロを踊るのは岸本秀雄さん。
 2018年に東京バレエ団からBBLに移籍した方だが、ほぼ休みなく飛び跳ね続けるため相当なスタミナを要求される役を見事に演じ切って喝采を浴びた。
 ところで、”Radio Ga Ga” の特色は、私見では、ソロとコール・ドが対等の比重で演じられることと、2人のソロの間における、またコール・ドの内部におけるコリオの分節化にあると思う。
 観ればすぐ分かると思うのだが(Ballet For Life Maurice Béjart 1)、2人のソロのダンサーが舞台上で伸びやかに飛び跳ねたり這いずり回ったりする一方で、箱(ラジオ?)の中で20人近いダンサーが万華鏡のように蠢くという、なんとも言えないコントラストが真っ先に目に入る。
 次に、ソロの2人を見ると、一人はダイナミックに飛び跳ねているが、もう一人は地を這うような苦しそうな動きで、コントラストが明瞭である。
 さらに、箱の中を見ると、通常の演目のように「全員同じコリオ」をしているのではなく、一人一人違う動きをしているのが分かる。
 要するに、「『個v.s.全』又は『動v.s.静』という二項対立の多重構造」が浮かび上がるのである。
 若干ややこしいが、ここには、
・ソロv.s.コール・ド
・ソロ(飛ぶ)v.s.ソロ(這う)
・コール・ドv.s.コール・ドの各メンバー
という、少なくとも3つのレベルにおいて二項対立が現れていることになる。
 さすが哲学者の子!
 

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夜行性?

2024年10月02日 06時30分00秒 | Weblog
 「旅の山伏が大和国の葛城山で大雪の中往生していると一人の女の庵でもてなされます。女は葛城の神であり、役ノ行者に命じられた岩橋を架けなかったため、不動明王の縛縄に苦しんでおり、加持祈祷で苦から救って欲しいと願います。山伏が女神のために祈祷していると苦を免れた喜びを述べ、舞を舞い、やがて暁近くなると暗い岩戸の内へ姿を消します。人間に近い性格を持った古代の神の気品ある、且つ女性らしさを感じさせる作品です。

 「山伏たちが、葛城の神を慰めようと祈っていると、女体の葛城の神が、蔦葛に縛られた姿を見せました。葛城の神は、山伏たちにしっかり祈祷するよう頼み、大和舞を舞うと、夜明けの光で醜い顔があらわになる前にと、磐戸のなかへ入っていきました。

 恒例の村上湛先生の解説では、「女」=「女神」は、基本的には動物が神に変化したもの(いわゆる「龍神」)であるという。
 そして、当時の葛城山は「高天原」と同視されていたそうなので、この女神は、天照大神(アマテラス)であるという。
 中入り後の後に駕籠(?)の中から美しい女神が登場する場面では、おそらく全員が息を呑んだことだろう。
 ところが、女神は、夜明けが近づくと、醜い顔が太陽で露わになる前に岩戸の中に隠れた。
 このストーリーで、ピンとくる人はピンとくるだろう。
 それは、蛇を太陽の「ヒエロファニー」と見るインド神話と、筑紫申真先生の「『アマテラス』=『蛇』説」である(特別な日(7))。
 「葛城」で言うと、女神は顔が醜く、岩戸の中に隠れるところなどは、筑紫説を裏付ける有力な材料となるだろう(ついでに言えば、アマテラスのご神体である「鏡」の原義が「カガ(ヘビ)の目」であることも重要である。)。
 ただ、「葛城」が筑紫説と必ずしも合致しない点がある。
 それは、女神が夜活動する、つまり夜行性であるという点である。

 「アオダイショウは様々な場所に生息しており、私のこれまでのアオダイショウの発見も、狙ってのものではなく、たまたま野外を散策して遭遇するということが多かったです。
 特に彼らは個体数が多いのか、路上に出ていることも多く、車どおりが少ない山道、畑や田んぼの周りの道を車で走っていると、路上にいる個体に出くわします。

 私は、女神である蛇は、アオダイショウのアルビノであると断定してよいと思う(「葛城」の女神の衣装もそうだし、日本最古の神社と言われる大神神社:【4】巳の神杉(みのかみすぎ) などからも明らかだろう。)。
 ところが、アオダイショウは、「昼行性で、夜間は岩の隙間や地面に空いた穴の中などで過ごす」らしいのだ。
 確かに、アオダイショウには昼間に出くわすことが多いと思う。
 ・・・うーむ、これはどう考えるべきだろうか?
 生物学者の見解を知りたいものだが、この論争に手っ取り早く決着を付ける方法がある。
 それは、「見てはいけない」とされている伊勢神宮の御神体、すなわち八咫の鏡(やたのかがみ)を見て確認するというもの。
 私の推測では、そこには、蛇とその目玉が描かれているはずである。
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