『貝の穴に河童が居る事』の原稿を持って、パソコン内の完成しているデータと照らし合わせる。展示会場で仕事。忙しい作家のようにみえる。 ただシャッターを切っただけのカットはわずかであり、1カットに数日かけてきた。ここまでくると無駄にはできないし、無駄になるカットを作ってもいけない。今回つくづく思ったのは、読書は読むためにするものであって、“作る”ために読むものではない。特に鏡花は鏡花独特のリズムがある。あまりディテールにこだわって読んでいると、せっかくのリズムの味わいを阻害することになる。逆にいえば、けっこう勘違い、読み間違いをしていたことが判った。読み間違いの結果、作中ありもしない山道を作ってしまった。これがなかなかのできで、未練がましく消去できないでいる。編集者は雰囲気があるからいいではないか、というが、私は基本的に作者にウケることを想定して作っている。やはり違うと知ってしまって使うことはない。 画の多さからいうと、挿絵というより絵本に近い。某社の解説者でさえ、頭の中に事実と違う画を浮かべているくらいである、今回、普段鏡花など読んだことがない一般人に出演をお願いしたわけだが、事前に読んでもらっても、何をいっているのか判らない、という声が多かった。本来、そこまで描いてはダサい、という場合も、それらの理由からそうはならないであろう。 今回会場には、九州帝国大学医学部の卒業アルバムを展示している。重量もかなりある大判のボロボロである。国立にお住まいの西原和海さんにご来場いただいた。夢野久作を作るにあたり著作を拝読させていただいた。写眞帳を熱心にご覧になっていた。貴重であることは確かのようである。制作中、ときたま枕にしてしまって申し訳ない。正木教授のモデル下田光造を見て『ドグラマグラ』の桂枝雀にそっくりなことに、見た方はだいたい驚く。 今回の展示は、数年前に発表したものであり、わざわざ来ていただいて、見たことあるよ、では申し訳なく、私からはあまりDMを送っていない。芳名帳をみると、それでも来ていただいた方があり有難かった。やはり一度観ていただいている新保博久さんにも来ていただいた。前回『白昼夢』の亭主に殺され、バラバラにされ、死蝋化されてショーウインドウに飾られてしまった女房。私は首とトルソとして描いたが、制作後に五つに解体されているので首は切断されていないないことに気付いた話をさせていただいた。講談社版の横尾忠則さん以降、私の知る限り6つに分けるのが通例となっている。 地元へ帰り、来年スタジオを借りて音を出そうといっているトラックドライバー2人と飲む。何故か関係ない小さい爺さんが横にいる。ドラムを叩くメンバーがいないが、酒も飲まず、酔っ払うこともないドラムマシーンで済ませることに衆議一決。
過去の雑記
HOM