明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



毎年この時期になると、昨年までできなかったり思いつかなかったことをやっただろうか、と考える。昨年と同じでは、ただ年取って、冥土の旅に一歩近づいただけ、ということになる。そして、いくら若返ろうと、制作上、あれができなかった頃には戻りたくない。ということであれば、死の恐怖もいくらか緩むという仕組みである。 今年は人間でない妖怪を始めて作ったし、人間を作中に、より積極的に取り込むことで、表現に広がりを持たせる可能性もみえた。そこで昨年の三島、今年の鏡花とくれば、来年は谷崎、と行きたいところである。しかし一方で、そろそろオイルプリントの再開ということも考えないではない。2000年代の中頃までは、オイルプリントによる個展を連発していたが、当時は古典技法の用語など覚えたところで、話し合う相手がいなければ意味がない、と苦笑する有様であった。クラシックカメラの雑誌に“最近はフイルム、ペーパーなど製造中止になることがあるようだが、光と陰を定着する事にかけての先達の苦闘の歴史を垣間見て一度体験してしまうと、仮にすべてが製造中止になっても、ハンコをもって薬品問屋にさえいけば、なんとかなるような気になるものである ”と遠慮がちに書いたことがあるが、その後の写真界のデジタル化は、遠慮もなにもなく、想像をこえたスピードで進んだ。 オイルプリントに関しては、当時ある程度技術も習得したところで乱歩本の制作、ついで2冊目になる『ObjectGlass12』。そして隔月で4年間続いた『中央公論Adagio』ということになったが、その間に、世のデジタルネガの技術も向上し、今こそアナログだ、古典技法だ、と国内外を問わず、古典技法を手掛ける人口が増えている。 すべての作品データは、オイルプリント化を前提に考えてきたが、人物像を制作して撮影し、そこからデジタルネガを作りオイルプリント化する。 いくら良い作品を制作しても、私の代わりがいるなら意味がない。馬鹿々しいから誰もやらない。そんな理由で結構。これは長年にわたり考えていた、地球上に私ただ一人になる方法である。

去の雑記
HOM



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