鍵盤の間にブルースがあるという。白人が考案した西洋音階に基づき配列された鍵盤では、黒人音楽のニュアンスは表現しきれない、ということであろうか。調律してあるピアノのピアノ線に新聞紙を挟んだ、等のエピソードも聞いたことがある。もちろんこれは言葉の綾というやつで、カウント・ベイシーを聴けば新聞紙など必要ないことは判る。セロニアス・モンク、メンフィス・スリムしかり。 ところで写された肖像写真について。ある写真は、被写体の人物がある日。写真スタジオを訪れた日のことを表しているに過ぎない。と前回書いた。自分で作ったものを自分で撮影しなければ考えなかったことがある。 私の場合人物像を作り、そこからある場面を想定した撮影がある。となるとある日のスタジオでの事実という確かな鍵盤だけでは不足なのである。肖像写真に写っていない部分。つまり鍵盤の間が重要になってくる。まだ解りにくい。 では簡単な枝葉の話でいえば、エドガー・ポーは、有名な写真が片方の眉が下がっているが、これはおそらくスタジオに見当があり、写真師に何番を見ていて下さい。といわれたであろう。長時間露光の場合、黒目が動くと目の中が黒目だけ、というエイリアンのような不気味なことになりかねない。ポーは視線を向けた方向により、片側の眉がああなる人だったはずである。世界中に片側がかしいだ画像があふれているが、それを違うシチュエーションで常にあれではおかしいであろう。ビアズリーは正面向かせたせいもあり、さすが、そのまま描かない。 これは枝葉についていっているに過ぎず、写真に写っていない、鍵盤の間のニュアンスをイメージするために有効なのは、伝記を読むことである。
※世田谷文学館にて展示中。
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