明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ふげん社移転後、口明けの個展をやられた土田ヒロミさんがお見えになる。燃える金閣寺の三島の前で記念写真。ところがスマホを渡された私が、いくらツンツンしてもシャッターが下りず。仕方ないので私が構え、シャッターはたまたまいた知人に押してもらった。私はこの世にいるつもりでいるのだが何故だ? 制作に集中していると様々な偶然を引き寄せることがある。例えば泉鏡花の貝の穴に河童の居る事を制作していた時は、フクロウが登場するのだが、どこで撮れば良いのだ、と思っていたら、ごく近所に猛禽類カフェができる。こんなことは良くある。三島で凄かったのは、三島の個展会場を探していて、ある展示スペースを紹介された。良かったのだが、管理をすべて自分でやらないとならない。私の苦手なことで躊躇していたら、なんとそこの先代の社長が三島が市ヶ谷に持っていき介錯に使われた日本刀、関の孫六を三島にあげた人で、現社長が居合いをやっていて、17歳だがで切腹の作法を教えたという。地球上で、他にどこでやれば良いのだ、という話である。ところが三島にあげた刀があのような使い方されて残念だ、と報道され、残念とは何事か!という右翼の言いがかりで、商売にも差し支え大変だったそうである。そのせいで何十年も経っていたにも関わらず、何をやっても良いが、三島だけは、と断られてしまった。 今日もかなりな偶然を知った。寒山と拾得は実は文殊菩薩と普賢菩薩だということになっている。ところが個展会場のふげん社とは、社長が子供の頃、森鴎外の寒山拾得を読んだことで名付けたという。なので先日の飯沢耕太郎さんとのトークショーで、私が突然寒山拾得、と言い出したので驚いたそうである。写真関係者の口から寒山拾得はまず発音されることはないだろうから、そのいわれをどのくらいの人が知っているのか。 三島を終えたからこそ、私の中で寒山と拾得が大きくなってきた。ふげん社に最初にお邪魔したときに、三島を持っていなかったら、果たしてこんなことが起きただろうか。 私もこのようにはしゃいでしまうと、いよいよ寒山拾得で決めないと、かなり格好の悪いことになりそうである。東京でやるならふげん社で、といっていただいた。 






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