明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昭和残侠伝唐獅子牡丹の三島は、私を作った後、誰を作ろうというんだ?と私に言っている。確かに魅死魔幽鬼夫の後は、もう人に非ずなものを手掛けるしかないのではないか?となるとやはり寒山拾得だろうか。なぜ寒山拾得か、というと実は良く判らない。これは毎度のことであり、制作しているうちにわかってきて、その暁に、始めから計画的に考えて作りました。という顔をする寸法である。これは陰影をなくす手法も、今でこそ始めから計画通り、みたいな顔をしているが。ブログを読んだ人以外にはバレない。 そういえは、谷中の全生庵で、三遊亭圓朝旧蔵の幽霊画とともに圓朝像を展示した時、全生庵が、中国寒山寺と同じ臨済宗の禅寺と知り、来た!と思わずいずれ寒山拾得を作ります!と玄関先で口走っていた。 こうやって常に行き先も見えぬまま、行き当たりばったりただ衝動に従い、毛細血管が匍匐全身をするかのように、少しづつ変化していく私である。諦めの悪い私も手法としては石塚式ピクトリアリズムこと大リーグボール3号が最後であろう。常々思うが人生とは、夏休みのバイトの如く、慣れた頃に夏休みは終わるのであろう。夏休みが終わるまで、投げられるだけ投げておきたい。









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