明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日のトークショーでも話したが、写真の素人だった私が、野島康三に一目惚れ、神田の古書街に通いつめ、廃れた写真の古典技法にオイルプリントに血道を上げた。それは発表する気もなく、ただやりたかっただけなので、ようやく画が出た時点で止めた。本業を放り出し、ハラハラしながらやっていたからである。その後、自分の作品を撮るようになり、それならあのオイルで、とやったのが、一日だけの個展が1999年、そして正式に2000年。その後、ニジンスキー、コクトー、ディアギレフなんてモチーフで。私は幼児の頃から読んでいた偉人伝の類で、人のやらないことをやる人が偉い、と洗脳され騙されていた。それは狩猟民族ならともかく日本という農耕社会には当てはまらず変人扱いである。なのでデジタルの反作用で古典技法が花盛りになり、今なら安全と再開した。案の定である。 私は永らく、あの時オイルプリントにハマったのは、最後に今までの作品をオイル化して残すためだったのだ、と解釈、最晩年そうしていくのだろう、と考えていたが、そこへまさかの石塚式ピクトリアリズムの新手法。私の大リーグボール3号である。そして当ブログでも何度となく書いたが、自分で編み出した手法は、妙に自分の性格、その他にマッチしているものだな、と一人感心していた。たいした機材も必要なく、ただ陰影を出さないように撮影し、切り抜いて配するだけで、山賊体質の私にあっており、技術的に簡単な分、想いをダイレクトに炸裂させることができ、ようやく私なりの念写が実現した。先日もブログで、その簡単さ、が私にしてはかっこいいなどと自画自賛したばかりである。飯沢耕太郎さんにもトークショーのおり、オイルプリントはもうやらないのか、と聞かれた。確かにこのままでは、あの悪戦苦闘の歴史が無駄になる。ところがトークショーの翌日、突然気がついてしまった。あの経験は今に至る布石であり、石塚ピクトリアリズムとは無関係のようでいて自分に向いた手法に至るために間接的に作用を及ぼしていたのだ、と気がついた。これは衝動に任せてやってきたゆえであり、人間も自然物、草木同様、頭など使わず任せていれば間違いないがないことが証明された。という訳で、コロナ騒動の中決行されている椿説男の死は私の現時点での最高到達点である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )