明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山と拾得は、森鴎外によると痩せている、と書かれている。私はヤフオクで入手した中国寒山寺の土産物として売られている拓本を持っているが、伊集院光が自分にそっくりだと、集めたくらいで、二人はでっぷり太っている。さすがにもう、説話上の人物であるし、痩せていようが、太っていようが構わない訳である。夏目漱石の鼻が実はかぎっ鼻だった、といっては喜んだり、芭蕉は門弟の描いた肖像画だけを参考に、なんて律儀にする必要はない。 石塚式ピクトリアリズムの第一作、今回も展示している、三遊亭圓朝だが、これは鏑木清方作三遊亭圓朝像へのオマージュとしたが、当初、肖像画の傑作、圓朝像は、単に資料の一つのつもりだったが、これが私の知る限り写真で見る圓朝と顔が違うのである。これには悩んだが、これが清方の表現だと納得した。しかしこれは幼い頃から面識のある清方だからこそでのデフォルメであり、単に写真だけが頼りの私がそれをやる訳には行かない。そう思い敬意を込めて同じ構図にしてオマージュとした。実在者はもう辞める、と決めた原因の一つはこの時にあった、と今思った。 ところがもう律儀に実像に迫る必要はないのに関わらず、先日も書いたが、私が新趣向の寒山拾得像を制作しようというのは違う気がするのである。矛盾するようだが、むしろ先達の描く寒山拾得に準じ、写経でもするつもりで、その末席に座ることができれば成功ではないか?常日頃のモットーである及ばざるくらいなら過ぎたるたる方がマシも、人形を作り、写真に撮り石塚式ピクトリアリズム化できれば目的に達することになるのではないか。寒山拾得制作を前にそんな気がするのである。


鏑木清方作 三遊亭圓朝像へのオマージュ


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