明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昔から考えていたことだが、人間も自然物、草や木と同じような物であるから自分の中にすべて答えが備わっているのではないか。それに気付かないのは余計なことばかり考える頭があるからだと。経験上、頭を使って導き出したことにろくなことがなく、なぜだが判らないが、湧いてくる衝動のままに行ったことのほうが結果が良い。それに気付いてからは、見聞など広める必要も感じず、画廊や美術館にも行かなくなり、腹の奥底から湧いてくるものに耳を澄ませ、棚からぼた餅のように降って来たことのみ取り逃さないよう気を付けている。出無精の言い訳になってしまうのだが。 何十年も前から、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想、といっていたのは、比喩表現でも何でもない。もっとも私は絵描きではないので、最低限、外の世界の素材は必要であり、以前、海や空、水や火、地面や壁や、撮りためていたものである。ハードディスクの度重なる故障で殆どが失われ、また始めようと思っている。数年前から写真が残っているような人物は、新たに作らないことにしたが、それこそ既存の、外側の事象?を写真を見ながら制作するのはもう充分だと感じたからである。 大昔、楽器以外は写真などできるだけ参考にしないように制作していた時期があった。例えば人の耳は本当はこうではないが、そう思い込むには理由があり、本当のことを知ったら私の個性は失われてしまう。いかにもデッサンもろくすっぽしたことがないド素人の考えそうなことであったが、自分を外の情報から守り、余計な勉強をしてはならない。必要のない技術は身に着けない。このことは頑なに守って来た。しかしある時から実在した人物を作るようになり、色々な情報を取り入れてしまった。もう戻れない。 寒山拾得に何故惹かれるのか、自分ではさっぱり判っていないところが見込みがある。表層の脳で理解できるようなことは制作の対象としてはたいした物ではないから手を出してはならない。そして個展の暁には、熟考しながら計画的に事を進めたような顔をしている訳である。


潮騒より


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