明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ようやくマスク届く。かつての東京の下水整備のように高い所から低い所へか、とひがむところであった。なるほど、私には眼帯にちょうど良さそうなサイズである。 日光が良いとかいうこともあり葛飾北斎、松尾芭蕉のペーパーがけを、ベランダにパイプ椅子を出して行う。北斎は今回は撮影を行わないが、芭蕉は色さえ塗れば撮影はすぐに可能である。しかも良かれと思い、リアルな風合いを出そうと、肌の部分は重ね塗りしていたが、陰影を出さずに撮影する石塚式ピクトリアリズム、絵画主義写真はそれがかえって汚れムラのようになって使えない。ただ一色をベタ塗りする。つくづく思うのだが、自分で考え出したことは、自分に都合よく出来ているというか、ズボラな私に都合よく出来ているというのは偶然なのだろうか。お天道様は見てくれている。そう思うと同じピクトリアリズムのオイルプリントなど、よその人が考えただけあり面倒であった。個人的には技術は簡単な方が良いと考える。センス勝負になるからである。オイルプリントも大分ハードルを低くできた。ワークショップで始めて制作したオイルプリントを個展に出品し、しかも売れてしまった人がいて、開いた口ふさがらず。 今から2、30年前、ライアル・ワトソンが流行ったころだろうか、昆虫などの擬態というのはウィルスが引き起こしている、という説を耳にした覚えがある。擬態は、確かに客観的な存在、お天道様みたいな物が在りそうではある。 ベランダでペーパーがけをしていて、北斎と芭蕉は私の作品の中では大きめである。たすきがけして腕を出してる北斎に下膨れの芭蕉は無理だが、芭蕉の身体に北斎の頭はフィットした。使わない手はない。蛸と絡んだ海女の股ぐらを覗き込んでスケッチしていない時の北斎。 私がルールブックである。





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