明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日の虎渓三笑図だが、修行のため山から降りないと決めていた老人が、友人を送って行ったら、話が盛り上がってしまって、気が付いたら、決めていたラインをうっかり超えてしまって大笑い。というバカバカしいような話だが、惠遠は仏教、陶淵明は儒教、陸修静は道教を象徴していて、ただのお笑い三人組ではない。 私は昔から、ホントのことはどうでも良い、といってるわりに融通が効かないところがあり、ヘンに整合性にこだわってみたり。しかし寒山拾得、この虎渓三笑などは俗世離れした味わいがあるが、作り話である。そのせいもあるのだろう。ある場面は実景を使い、ある場面は作業台の上に作った山々、ある場面は陰影たっぷり、等々、かまわないという気になってきた。 長らく制作してきた作家シリーズの中でも、昨年5月の個展『三島由紀夫へのオマージュ 椿説男の死』は、それまでと違い、実際本人がやらなかったことばかりを選んで創作した。そう思うと、架空の寒山拾得の世界も、自覚はなかったものの、喉元まで出て来ていたのだ、と改めて思うのである。もっとも私が自覚出来る程度のことにロクな物などはなく、何故か判らないが、やらずにいられない衝動に準じるべきである。“考えるな感じろ”だって自然物だもの。 表層の脳の出来の悪さ、使い物にならなさ、あてにならなさ加減に小学校の低学年ですでに気付いていたことだけは自分を褒めてやりたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )