明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



円谷英二は悠長にベランダで自然乾燥させたが、横溝正史はそうもしていられず、乾燥機にて強制乾燥に入る。横溝は着物姿であるし、江戸川乱歩は同じく着物姿の、神奈川近代文学館の『大乱歩展』に出品した乱歩にした。乱歩邸の書斎には特注の机があったが、実際は寝床で寝転がって執筆したという。寝転がって妄想にふける乱歩を作ろう、と思いついた時の私のポーズそのままである。 乱歩は迫る締め切りに耐えかね旅に出てしまう。編集者時代の横溝は潜伏先を突き止め、原稿の催促をする。自信のない乱歩はこっそり原稿を便所に捨ててしまった。その作品が後に名作『押し絵と旅する男』になる。あくまで人に聞いた話だと断っておくが、昔は点数の悪いテスト用紙を便所に捨てた不届きな小学生もいたらしい。 乱歩の横に腕組みし、若干うつむき気味の横溝を立たせてみたら、ゴロゴロしてないで早く原稿書いてくれよ。といっているようであった。

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手術のため入院していた友人が無事退院してきたため、酒を飲む場合、何度か隣の人に理由をいって乾杯してもらった。おかげで制作もスピードアップ。 横溝正史は文士調に着流しのつもりでいたが、なんとなく寂しく、羽織を着せることにした。明日中には乾燥に入れるであろう。そうなれば柳田國男の草鞋を履いた足元や、乾燥を終えた円谷英二の仕上げに入る。まだ先だと思っていた世田谷文学館の展示も会期が迫ってきた。いつもは忙しくて行けなかったという友人知人も、半年も展示しているとなると逃げる訳にもいかないであろう。 目が覚めてしまうせいもあり、ここのところ睡眠時間は毎日2、3時間である。おかげで夕方前には眠くなる。腹が立つのは、そんな調子でT千穂のカウンターでついうたた寝をしてしまうと、横のイタチかカワウソのようなオヤジに「今寝てた?」と鬼の首を取ったようにニヤつかれることである。朝まで制作していての寝不足である。あんたのように酔いつぶれて店に叱られているのと一緒にするんじゃない。 コップ持つ指に粘土がこびりついたまま眠そうにしていると、大変ですね、といっていただくこともあるが、何か良いことがなければ、こんなことはしないのである。今回は肝心の頭部はすでに出来ていて胴体を作るだけである。傍からはとてもそうは見えないだろうが、酒を飲んでいるより1、5倍は楽しいのであった。

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横溝正史は『中央公論Adagio』では金田一の格好をさせたが、普通に着流し姿にすることにした。最近御無沙汰だが、かつては像を持って作家ゆかりの地を撮影してまわった。そうした場合はあまり意味を込めずに、ただ突っ立っている方が対応が利く。泉鏡花の場合は、1つの首に2ポーズの胴体をを持って金沢で数十カットものにしてきた。それを思うと最近は、たった1カットのために、その背景に合う像を作り何日もかけて合成をする。実に効率が悪い。もっとも効率云々をいうなら、そもそもこんなことはしていないわけで、1カットのための達成感は何にも換え難いものがある。 となると横溝には、たとえば詰め襟に脚絆、腰には長い物。頭には鉢巻きに懐中電灯を二本挿し、何やら思いつめた表情で野山を駆けまわってもらうことだってできるわけである。しかし私が作ったのは晩年の姿。さすがに走り回らすのは無理がある。ならばその格好で満足気に、たった今“一仕事”終えて来た村を遠くに眺めながら、腰を下ろして一服させるのはどうだろう。だいたいこんなことを書いた時には、書き出した時点ですでに画が具体的に浮かんでしまっており、構図その他、もう一切動かすことができない。この融通の利かないところが嫌で、もう少しああだこうだ考えたいところだが、結局最初に浮かんだイメージを超えることはできないのである。 まだ明けきらない山中で返り血を浴びた姿にするか、同じその格好でポカポカと穏やかな日中、何も浴びせない状態で、まるで野良仕事を終えて一服しているかのような穏やかな横溝。私の趣味からすると後者の方が間違いなく可笑しいので、そちらを選びそうだが、そのぐらいは後で考えたい。

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専門学校時代の友人N君が、伝統工芸の陶芸展の審査員として上京してきた。日本伝統工芸展の入選歴が3回だか4回以上が出品の条件で、その中から3人の受賞者を選出するそうで、人間国宝2人を含む7人の審査員で選んだという。先年彼の作品は国立近代美術館に収蔵もされた。しかし当の本人はというと、知り合った十代の終わり頃と基本的にはまったく変っておらず、それはほとんど呆れる程である。私には作る物が物凄く良くなってしまった以外は、眼鏡が遠近両用になったくらいの違いに思える。 相変わらずのバ◯アた◯しである。学生時代から何故だかお年寄り、特に女性に可愛がられる。近所の商店街で昼食の総菜を買っても、彼だけコロッケがひとつ余分にはいっているなんてことは普通であった。確かに気さくで愛想は良いのだが、ただそれだけでああはならない。何年か前に上京した時は、近所の安くて有名な◯三という、開店の4時には行列ができる店に連れて行った。ここは無愛想で知られる婆さんがいる。注文時に二言三言かわしたろうか。何しろ店は混み合っている。彼はセーターだったか何かを忘れてしまったので、翌日も2人で行ってみると、婆さんが彼の顔を見るなり「忘れ物!」と笑顔で手を振ったのには唖然としてしまった。まったくあり得ないことである。彼からは婆さんに効き目のある、猫でいうマタタビの成分のような物が発せられている。といわれれば納得ができる。 今回は彼がいかに彼の方面にウケがいいか、という驚くべきエピソードを聞いたが、それは彼を単に陶芸家として成功させるだけでは惜しい、というくらいの話なのだが、日本伝統工芸界の星になってくれれば充分といえば充分であるし、最近のブログは冗長が過ぎるので、この辺りにしておく。

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一日  


一時に有楽町。世田谷文学館の方とラボで待ち合わせ、プリント4点『夏目漱石』『円谷英二』『横溝正史』『柳田國男』にサインを入れる。ラボの受付が円谷英二を指し「これはなんですか?」私はこうやってずっと作品の解説をしなければならないのであろうか。まず好きか嫌いかをいいなさい。好きだ、というなら解説してあげよう。今日は好きだといわないのに解説してしまったが。 K本の常連のTさんがブログをプリントアウトしたものをくれた。K本には私が永井荷風を店内で撮影した写真が飾ってある。背景の女将さんは割烹着を着て頭も黒々とし、まだ50代である。それを荷風本人がK本を訪れた時の実写だと思い込んでいる客が複数居ることが判り可笑しかった。以前、江戸東京たてもの園で、たてもの園を背景に撮影した写真を展示した時のこと。撮影に使った人形も目の前に展示し、これを撮影した、と書いてあるのに信じない人がいた。こうなると私はただ写真を撮った人になってしまう。 先日、昭和32年に亡くなった父上のモノクロ写真をカラー化させてもらったMさんは、定年前、冷房もない真夏のK本の常連席で、汗をだらだらかきながらも、絶対上着を脱ごうとしなかった。それは傍から見て異様なくらいで、私は海軍の将校ですか?と冗談をいったものである。それがやはり海軍の将校であった父上の写真を修整しながら思い出した。聞くと息子さんにも学生服の詰め襟を外すのは許さなかったという。そしてそれがどうやら、知らないうちに母上に擦り込まれた亡き父上の精神だったらしい。Mさんは自分のこだわりの由来も判らずそうしていたというから、教育とはそうしたものなのであろう。いずれ遺品の儀礼刀を見せてもらうことになっている。

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寝る時は間違いなく眠くなって寝るので、おそらく目をつぶって十秒くらいで寝ているだろう。それはピストルで撃たれたかのようだ、といわれるくらいであるが、そのかわりに目が覚めるのが早い。それは今に始まったことではなく、歳のせいであろうが、がっかりするので、どのくらい寝たかは確かめないようにしている。今日も暗いうちに目が覚めてしまった。まるで老人である。おそらく8時間など10年以上寝ていないであろう。しかたがないので生存時間を稼いでいるのだ、と思い込むようにしている。 2時に近所のビジネスホテルで打ち合わせ。来年は江戸川乱歩没後50年であるが、某所で写真作品を展示することになった。それはそのまま収蔵されることになる。乱歩像もいずれ収蔵の可能性があるかもしれない。来月からの世田谷文学館の展示も05年に撮影し、収蔵された作品がふたたび展示される。私の家で冷たくされている作品を思うと、こうしてずっと見てもらえるのは有り難いことである。 作品が完成し、私の中にこんなイメージが本当に在った、ということを確認し、証拠を写真に納めてしまうと急速に醒めていってしまい、以後一瞥もくれない。昨年ネットで落札して到着したオンボロエレキギターの恨めしそうな様子を見て、私が子供の頃から飽きて駄目にしてきたギターが化けて出た!と思い、少々反省し、供養のためにも使えるようにしてもらった。あれ以来、私に冷遇されている過去の作品が可哀想に思えてきて、化けて出る前に全作品に陽を当てたいと考えるようになった。だいたいそろそろ君等の居場所がなくなってきているのだ。

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仕事を通じて知り合い、友人として付き合いが続くことはまれで、たった2人しかいないのだが、その一人のS君はアメリカ在住で、日本に帰って来ているという。睡眠時間を削って円谷英二を乾燥させるところまで持って来られたので、数年ぶりに会うことになった。 彼と知り合ったのは80年代の終わり頃だったろうか。イベントや、様々なプロデユースをする会社にいて、デイスコに飾る人間大の像を作ったり、カレンダーを作ったりしたのを覚えている。その会社の社員募集の広告には私の作品が使われていた。 S君が会社を止めた後も付き合いは続いた。丁度10歳下の彼は元サーファーで、渋谷のセンター街の連中には後輩が多く、後の芸能人やら世間を騒がせることになる連中がいて、書くことがはばかれる面白い話を聞かせてくれた。しかし当人はいたって真面目で親孝行な男であったが、見る前に軽やかに跳んでしまうタイプで、少々はらはらしたものの、会うたびに面白い状況になっていて退屈しない。某TV局からアイルトン・セナを作るという話を持って来たのを覚えているが、それは次回レースに参戦するかどうか判らないという状況で、結局作ってはみたものの、という可能性があったし、私がセナが誰だか知らない、ということで立ち消えになったが、作っていれば面白かったろう。 そしていつの間にかアメリカに渡り、ネット関連のシステムがどうの、という会社に入り、社員が彼一人だったのに止める時には300人。年商数百億の会社になっていたそうである。独立後は紆余曲折もあったようだが順調な様子で、近年幼稚園の経営も始め、ブートキャンプのビリーの子供も預かっているという。日系の障害を持つ子供の親のサポートする非営利団体にもかかわっていて、そちらの方にも活動を広げようとしている。木場公園で桜を眺めながらここ数十年の話を聞いた。その間の私の変化といえば、それ一筋といえば聞こえは良いが、作る対象が変ったくらいである。それに引きかえ彼の意外な展開は相変わらずであった。 その後K本、T千穂と場所を移し旧交を温めた。アメリカに帰るまで間があるので、もう1回くらい会えるかもしれない。彼が帰ったあと寝不足がたたってT千穂で居眠り。

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