明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



5月に個展『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』をやり終え、体調崩したりはしたものの以後、金魚を眺め暮らす事にした。何しろ寒山拾得なんてどうして良いか判らない。その後、僅かな間に様々なことが解明されている。金魚の効果、私の想定以上である。というより禅というモチーフは、手掛けようと考えただけで“奇特な輩がいたもんだ”とでもいうのか、御利益があるのかもしれない。 そう思うと、三島由紀夫展を通過することが必要条件であったろうが、でなければ今の心境には至っていなかったのは間違いがなく、そうなると欲が出て、寒山拾得展まで、クリニックはサボらず、交通事故、さらにコロナには気を付けたい。

小中、工芸学校の先輩から古い写真が送られて来た。茨城の廃村から東京に戻り、自分の陶芸窯を作ろうと、溶接の仕事を始めた頃で、22歳くらいか。かたわらに黒人の人形が二体写っている。その先輩に人形の写真を撮って貰った日のカットである。つい最近金魚仲間として復活した幼馴染みが美容師を目指すというので、実験台でパーマをかけている。写真に興味がなく、まだ眼鏡を掛けておらず、自分が乱視であることも知らず、ピントも合わなかった。撮影に使ったZライトも写っている。 ここから試行錯誤が始まった訳だが。私はこの時の自分に言いたい。”お前は自分で見つけた事だけでしか前に進めない厄介な人間だぞ“ ここから遅遅として進まない長い道のりが始まる訳だが、それを知らないから写真の中の私は笑っている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




まずは豊干の頭部を作り、その次に虎を作る。制作は来年の正月開始とする。世間が休みの時は、心安らかに制作することが出来る。母は意識してはいなかっただろうが結果的に、”けつして外側の世界に興味がない、という顔はしてはならない“ことを私に教えた。だがその過程での副作用で、役にも立たない好きな物を作る事にたいして、拭い難い罪悪感が植え付けられ、そのため、世間が休みの時ほど、清々しく制作出来るのである。そのもっともな好機が正月ということになる。学生の頃から、正月に何か制作をしていなかったことは一度もない。実家に帰るようになったのは父が亡くなって以降のことである。だがしかし、これまたなんの根拠もないことではあるが、寒山拾得をやり遂げたなら、その時は罪悪感から解放されるような気がする。何しろ三島にしろ鏡花、室生犀星にしろファンはいる。寒山拾得に至ると、友人の90過ぎのお母さんが期待してくれているぐらいてある。役立たず、ここに極まれり。 所で昨年の引っ越しを機会に断舎利を決行し、私のイメージする東京は、東京オリンピック以前の東京であり、オリンピックに向けての開発により、何が消えようが失われようが不感症になり、と言って来たが、どうやらそれは違っていたようである。長らく東京オリンピックのせいにしていたが、そうではなく、元々興味がないのだろう。何度となく書いて来たが、幼い私は何処かの王様に石の塔に幽閉され、「ここには図書室もあるし、クレヨン鉛筆絵具使い放題。算数や宿題なんかしなくて良いから一生ここにおれ。」なんてことを夢想していた。それに昔から刑務所に入れられても、材料さえ供給してくれれば、たいして通常と変わらない作品を抱えて出所してくるだろうなんて思っていた。 役立たずであればあるほど盛り上がってしまうタチであることも証明することになる2021年となるだろう。寒山拾得に手を染めてしまった人間に怖いものがあろうはずがない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『豊干と虎図』我が侘び住まいに無事収まった。とても敵陣に突撃して討ち死にした勤王の志士が描いたとは思えない、奇怪な僧とひょうきんな虎は私を見守ってくれるだろう。もうこれで大丈夫だ、と根拠のない気持ちがフツフツと湧いて来てなんだか笑えた。私の場合、内から湧いて来ることがもっとも大事なことであり、頭で理解出来る程度の根拠など必要としない。床の間代わりの置き床では、軸が届きそうなので、ギター制作用に入手しながら使いもしないホンジュラスマホガニーの板でも下に敷くことにしよう。 昔から、人間も草木と同じ自然物であるから、内部には、必要にして充分な物がすでに備わっているので、その声を聞き逃さずいれば良い、とそれこそ根拠もなしに確信してきた。何某か先達に学んだ所で、必ずしも改善されず、むしろ衰退していることは博物館に行けば判るし。 ここまで来て、何故幼い頃から、外側の事象を描く写生が嫌いであったのか。それこそ外側の世界を写すために作られた写真に対しても、真など写してたまるか、とずっとグズグズいい続け、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを向ける“念写”が理想だ、という始末である。 幼い頃から行き当たりばったり、なんの脈絡もなく歩いて来たつもりでいたが、実はどうも真っ直ぐな一本道をずっと来たのだ、とここに来て私の正体にやんわり気付き始めている。そしてここに至り、何故『寒山拾得』なのか。についてもどうやら合点がいきつつある。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


好き勝手に作っているようで、案外、融通の利かないところがある。以前であれば、猫を虎に変えたなら、虎はすべて猫で行かなければならない、と考えただろうが、同一画面の中に矛盾がなければ、かまわないという所まで来た。虎も作ることになるかもしれない。この調子で行くと、いずれ同一画面の中にさえ矛盾が存在することになるかもしれない。何しろかつての日本人は、一つの画面内に時間経過、さらに起承転結でさえ描いて来たのである。西洋文明に犯される前の日本人の目を、見え方を取り戻せるならば取り戻してみたいものである。 備忘録としてのこのブログもいずれ改めて読み直してみたいが、確か昼間、買い物を済ませ永代通りを歩いていた時だったろう。頭の中のイメージには陰影がない、と気付いてスーパーの袋を取り落としそうになった時のことは鮮明に覚えている。私の中のかつての日本人の記憶が、フラッシュバックのように、突然甦ったかのような気がした。 頭に浮かんだイメージは何処に行ってしまうんだろう。確かに在るのに。と悩んでいた幼い頃の私に、やたらと時間がかかつたが、一応、ここまで来た、と教えてやりたい気がするが、時間かかり過ぎだ!と絶望して寝込んでしまいそうである。自分で見つけた物しか役に立たない、という厄介な性質なので仕方がないのだよ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 
『豊干に虎図』の掛け軸届く。タトウ入り、香が炊きこまれ落款印譜のコピーも入っていた。今時尊攘派の志士など人気ないのだろう。おかげで私の家にかけられることになった。 ”待てば海路の日和あり“子供の頃から、お隣の家のステレオ装置で広沢虎造の三十石船をかってに上がりこんで聴いていたせいで、学校のテストで日和を“しより”と書いてしまった。寒山拾得に関して、なんとなくではあるが、外堀が埋まりつつある気がする。この掛け軸も一役買うだろうし、偶然先月、必要があり、ある動物の毛並みを工夫したことについて、虎も作れという啓示であろう。 下手に性能のかんばしくない頭を使うくらいなら、金魚でも眺めながら待つ方が良い。私の扱い方は私が一番知っている。知っているのは制作に関してだけなのが惜しいのだが。まあ、あれもこれも、と贅沢を言うもんではない。肝腎な一つについて知っているのだから上出来としよう。 まずは、常に寒山拾得の膜に覆われているような状態になる事が肝腎である。三島を作っている時も書いたが、洗濯物を眺めても、三島由紀夫越しに洗濯物が見えているような状態で、そうなればいつ頭上から何か降って来ても、取り落とすことはない。ただ交通事故には気を付けたい。 口うるさかった母には、“外の世界に興味がないような顔は決してしてはならない”と教わった気がする。母親の勘が、親心がそう判断したのであろう。確かに例えば私が三島由紀夫、あるいは今なら寒山拾得の膜に覆われたような状態でいることを察知し、腹を立てるのは決まって女性である。小学校の担任の女教師は、そんな状態の私を難聴であると判断した。おかげで母に手を引かれ買い物に行くと母が小さい声で私の名を呼び耳の調子を試すのであった『うるさいなあ、なんだよさっきから。』と思いながら、聞こえないふりの私であった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




寒山拾得水槽の虎役の金魚が、黒の虎模様が消えてしまい、ベランダに出向になって久しい。金魚というものはそういうものらしく、色抜けする途中の状態を虎柄などといって売っているらしい。以来。虎柄を見つけでも買う気がしない。 藤本鉄石のひょうきんな虎は良いが、ところで私はどうする、という話である。後の寒山拾得制作時に備え、知人の家で飼われているトラ猫を撮影し『月に虎図』をものにしたは良いが、あれにしたところで前もってマタタビをキメてもらい、2回撮影して、ようやく一カットである。豊干を乗せたり、豊干、寒山、拾得と虎が寄り添って眠る『四睡図』は必ず手掛けなくてはならない。猫がそんな調子良く撮らせてくれるとは思えない。かといって、フリーペーパーの表紙で向田邦子を作った時、アンコ?だったか、妙な色した猫を抱かせたが、二度と猫なんか作らないと思った。特にあの頃は、すぐ近所に猫だらけの飲み屋があり、目の前のカウンターに、ずっと居座られたりしていたから、あれを撮らせて貰えば良かった、と後悔した。また、『植村直己と板橋を歩く』も悩んだ。街中に私服で立たせ、あんな華もなく絵にもならない人物はいない。板橋の名前の元となった、現在コンクリート橋のかたわらの道標のイメージを頼り、アラスカンマラミュートのブリーダーの所まで撮影に行った。この時は、逆にマラミュートという”純毛“がそばにいるので粘土製の植村の髪が合わなく、階下に住む人を呼び出し、屋上で私の髪を撮影してもらい貼り付けた。ところでそういえば。 詳細は語れないが、つい先月、たまたま、ある動物の”毛並み“を表現する機会があった。偶然にも程がある。“ああ、これは虎も作れということだな”と今思った。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





毎日金魚を眺めていると、連中が餌以外のことには無関心なことが判る。私の今の関心事は、私が餌のパッケージを持っているのといないのと、連中が認識しているのか、ということで、水槽の前で餌を持って“赤上げて、白下げないで赤下げない”なんてやっている。 こんなあてにならない連中よりも、昨日落札した豊干と虎の図こそが私を見守り後押ししてくれるだろう。しかし届くまでは安心出来ない。以前明治時代の歌舞伎役者の書を落札した時、出品者から連絡が着た。「品物はすべて別棟の倉庫にしまっているのだが、いくら捜しても見当たらない。ハクビシンの仕業かもしれない」。言い訳にしてもふざけた話しだが、ハクビシンに免じて忘れることにした。 豊干と虎図の作者、藤本鉄石は諸藩の追っ手に追い詰められながらも脱出に成功したが、逃げることを潔しとせず、門弟一人と共に引き返し紀州藩本陣に突撃、討ち死にした。昨日の繰り返しになるが、その壮烈な最後に引き替え、虎の脳天気な表情はどうだ。近所のノラ猫でさえもっとシャープである。人間一人の奥深さを想うのであった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




幕末に、近代化に対する不満を爆発させた攘夷派の士族が各地で決起する。三島由紀夫が晩年取材した神風連もその一つで、廃刀令に反発し決起、政府軍の近代兵器に対し刀、槍のみで抵抗、当然あっという間に鎮圧される。私も三島が神風連に扮し”もはやこれまで“と腹を切っているところを制作した。神風連は、電線の下を通る時は扇で頭を隠して通った。三島の最後の演説は、テレビを観ながら「スピーカーないと良く聴こえないよ。」と思った私だが、三島が市ヶ谷にスピーカーなんて野暮な物を持ち込むはずがない。もっとも説得され立ち上がる隊員が一人でもいたなら、予定の結末が妙なものになって困ったろう。 水戸藩では、天狗党の乱が起こった。徳川慶喜に想いを託そうとしたが、慶喜に見捨てられ、数百人が斬首された。私は仕事で慶喜を作ったことがあるが、父方の親類には天狗党三総裁の一人の子孫がいるので、作りながら妙な気分がした。 ところでここ数日、豊干禅師が寒山と拾得同様、奇怪な人物として描くべきではないか、と思っていたら、ヤフオクでそんな豊干と虎の図を見つけた。なかなかの怪僧ぶりが気に入り落札した。これから二年間私を見守って貰いたい。 作者はというと、奈良で起きた天誅組の乱の総裁の一人で、壮絶な討ち死にを果たした絵師でもある藤本鉄石である。天誅と虎の表情のギャップが可笑しい。山水図を多く残しているが、ユーモアの持ち主だと知ってはいたが、この作品には山水図では窺い知れない藤本のユーモアが現れていて納得した。以前藤本の、一人の鎧武者が真ん中にポツンと描かれたボロボロの掛け軸を入手したが、ボロ過ぎて掛けることはない。 私は64年の東京オリンピック以前の東京こそが、私の東京だ、と引っ越しを機会に、そんなつもりで暮らしているが、本音をいうと、さらに明治以前、御一新前に憧れがある。と、長押に架けられた南州こと西郷隆盛の扁額を見上げる私であった。本物は百に一つといわれており、当然九十九の口であろうけれど。 そういえば、つい先日のブログで葛飾北斎親子に”あんな野暮なものを取り入れると晩節を汚すことになるから止めた方が良い”と御忠告申し上げたばかりであった。

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




岸田劉生の『麗子像』は寒山拾得の、いわゆるアルカイックスマイルに影響を受けているという。先日、同一画面に矛盾さえなければ良い。つまり、写真の特質を生かし、寒山と拾得の無気味な笑顔に、陰影を付けて撮るのも良いのではないか。 私の大リーグボール3号だ、石塚式ピクトリアリズムだ、とひとしきりはしゃいでみると、今だからこそ、素直に陰影を駆使出来るのではないか。それは、真を写すという写真に対して、何処か腹に一物持ったまま、長年撮っていた時とは違って一皮剥け、打開策を手に入れた今なら、素直に陰影と向き合えるのではないか。 写真的な、陰影を与えられた寒山拾得こそが、今まで存在していなかった。当然、寒山拾得が、絵画のモチーフであり、西洋的絵画表現に合うわけもなく、当然、写真のモチーフにもなり得なかった。という単純な話である。 そう思うと、もう少し早くここに至っていれば、無限のモチーフが与えられ、やりたい放題だったろう。やはり“人生は夏休みのバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる”ということか。 だがしかしおかげで、いくらなんでも寒山拾得は、いきなり飛躍し過ぎだろう、という思いは消滅した。寒山拾得位で間尺が合うという気にようやくなった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





途中中断はあるが、小学校の頃から熱帯魚を、特にシクリッドという、縄張り意識が強く、他の魚との混泳が難しい魚を飼って来て、金魚は様々な形、模様の金魚と混泳が可能で(厳密にいえば、似た体型同士の方が良い)つい水槽内が賑やかになってしまう。あの色は居るから、もうちよっとこんな色が欲しい、となってしまうのである。しかし毎日眺めていると、金魚が特に平和主義者というわけではなく、実際は他の金魚に興味がない、無関心という感じである。 もうすでに、第二寒山拾得水槽が可能なくらい、数は居る。昨日までは寒山と拾得と共に三聖人と呼ばれる豊干が、大きく黒い僧衣をまとったような青文魚を、その風格から店で見た時点で豊干にするつもりでいたが、昨日書いたように、他の二人同様、実は阿弥陀如来であるのはともかく、むしろ怪僧じみているべきではないか、と思い始めた。そう思うと、最近メンバーとなった鹿の子模様のオランダが、よりふさわしい気がしている。水槽内で一番大きく、黒い鼻は犬のようでもあり、チヨビ髭にも見え、呑気な顔して、私の酒の相手をしてくれている。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




寒山拾得の拾得は豊干禅師に拾われたから拾得となった。最初に作ろうと考えている豊干は、一説によると二メートルほどの人物といわれる。虎を手なずけ跨がっているのだから、少なくとも小さくはないだろう。また阿弥陀如来だという説もある。かといって、寒山と拾得が、実はそれぞれ、文殊、普賢菩薩だというのに、あの有り様。豊干にしても阿弥陀如来然とはしておらず、実態を隠し、むしろ怪僧じみた人物として描きたい気がする。もしくは、豊干だけはまともな禅師とするか。 個人的には、幼稚園児の頃から、毎週、それこそ黒タイツの男の頃から、大きな化け物じみた連中をテレビで観ていたので、情報は十二分、私の中にあるので、それを生かしたくはある。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





急に気温が下がり、身体が気温変化に付いて行けてない。寝床から出る気が起きない。先日入稿した『タウン誌深川』には芭蕉庵制作にかこつけ、亡き父の話を書いたが、小学生の頃、母にいわれて布団から出て来ない父の掛け布団をカバッとはぎ取ったものだが、日頃叱られてばかりいる仕返しをしていた。寝坊している父が悪いのだ、と。一方、母に対するし返しは、家に来たセールスマンに、ウチにはあります、間にあってます。といっている母の背後から「それウチにないよ。」嘘を付いているのは母なので、叱られる心配はない。 昨日、寒山拾得のストーリーの中に、時折陰影の有る、アツプショットを差し挟むことを思い付いた。これはメリハリも出るし、リズムも生まれそうである。数千メートルクラスの深い山並みも、自分で作るつもりだが、本物の山も使いたいし、2、3年前に、谷崎潤一郎の背景にとんでもない価格の盆栽を配したことがあるが、これはもともと寒山の住まう山々に配したいがために撮影したものであった。自然を模倣する盆栽。まさに私の趣旨にピッタリである。虚実の配分、配合こそが私の盛り上がりどころである。寒山拾得は、ここぞとばかりに炸裂裂させることが可能なモチーフだろう。 ある時から、図書館で浮世絵、ある時代までの日本画ばかり眺めて、かつての日本人の自由さに憧れが生じた。十代の頃からの友人と、戻れるなら、今の経験を持って戻りたいよな、と良く話したが、私は今の状態のまま、維新前の日本人の末席に連なりたい。もし葛飾北斎親子に会ったなら悪いことはいわない、あんな野暮なもの取り入れるのは止めろ、晩節を汚すことになるぞ、と忠告してやりたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




寒山と拾得を作る前に、まずは豊干を作ろうと思う。色々な意味で基準になるだろう。とりあえずは頭部が出来れば、出来たも同然。放っておいて、次に誰かを作るも良し。普段、虎に乗っている豊干。虎をどうするか。数年前の、個展としては始めて石塚式ピクトリアリズムを披露した青木画廊に、かつて虎を見たことがなかった絵師の虎の味を出すために、近所のトラ猫を撮影し、顔のわずか一部に動物園の虎の模様を貼り付け『月に虎図』とした。唐突だと思いながら、その思い付きに我慢が出来ず出品したが、かなりなフライング。何でこの中に虎がいるんだ、という話しだが、思えばあの時には、寒山拾得にすでに向かっていたことになる。ただあの時点では、陰影を無くす、と言いながらも、つげ義春『ゲンセンカン主人』の女に、行灯の光を当てる誘惑抗しがたく、改宗したなら、すべてを改めるべきだ、という融通の利かなさで、身をよじって苦しんでいた有り様であった。今はというと、好き勝手やってるくせに、そんなことで悩むなんておかしいだろ、と欲望の赴くまま。一つの画面内に矛盾さえなければ良しとした。よって『三島由紀夫へのオマージュ椿説明男の死』では、市ヶ谷で11月の光が当たっていたり、弓張り月のように浮世絵のように陰影なかったり。 と今書いていて、寒山と拾得も、ポイントとなる、何らかの場面では、普通に陰影を表すカットがあっても良いだろう。例えば例の無気味な笑顔を寄せ合う二人のアップなど。

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしても今までずっと成り行き任せで行き当たりばったりで来たが、不思議なことに、誰かに仕組まれたような、何やら絵図を描く、客観的存在を信じそうになる。頭で考え企てたことが、ことごとく思い通りに行かず、熟慮の末に励んだことが無駄になる。何故だか理由が解らないが、やらずにはいられない衝動に任せると、そちらの方が必ず結果が良い。ということに気付いたのは幸いであった。以来、自分の衝動を信じることに決めた。何で寒山拾得なんだ?と未だに思っては?それいるのだが。 谷中の全生庵に、三遊亭圓朝旧蔵の幽霊画と共に圓朝像を展示して頂いた時、石塚式ピクトリアリズムの第1作が圓朝で、全生庵が、臨済宗の禅寺だと気付いた時、これは来たなと思い、対応の坊様にいずれ寒山拾得を手掛けると告げた。今年5月のふげん社の個展のトークショーでも、確信ないまま次は何を?の声につい寒山拾得と言ってしまった。 ふげん社は、寒山拾得の拾得が、じつは普賢菩薩である、というところから来ていると知る。こんな偶然はただ事ではない。一回目の『三島由紀夫へのオマージュ展男の死』の会場を探していた時、前年に紹介されて、会場を見に行っていた場所が、先代社長が、三島が事件に使用した刀“関の孫六”を三島にあげた人物だと知る。そこで大地震がおき、待たされたあげくに交渉すると、”何をやつても良いが三島だけは止めてくれ“といわれ、実現しなかったが。開催ギャラリーの偶然という意味では、ふげん社に匹敵するだろう。私なんぞが表層の脳で考えていたら、間違いなくこういうことは起きない。そこでひょっとして、と計算したら、初個展からちょうどきりの良い40周年であることに気付く。ここまで来ると、あまり驚かなくなって来る。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




82年の第1回個展は、会期一月前から一日豆腐一丁と白菜だけで、エアコンもなく、それも暑い季節に猫舌に乗じ鍋で食べる始末であった。何処の誰かも知られておらず、また東京に人が居ないお盆ど真ん中の割には、人に来てもらえた。そこで第2回は翌年の暮に決まった。決まったは良いが、そこからが良くない。一回目は、ある程度作品が貯まっていたし、何より怖いもの知らず。ところが一変、二回目はプレッシャーで苦しむ事となった。まったく作れなくなってしまった。今は粘土を開封したら、それを諦めることなく作り切るが、作り始めては、諦めの繰り返しで粘土を無駄にするばかり。昼間は物干しの溶接、夜は人形制作。これは酒など飲んでいる場合ではない、と約1年禁酒した。俳優がテレビでいくら飲酒していてもどうということはなかったが、最も好きであった噺家、志ん生の長男、金原亭馬生だけは毒で、だんだん酒が回って呂律が回らなくなる様が、あまりにリアルで耐え難く、画面に映るとチャンネルを換えた。1年後に、昔、一緒に廃村に住んだ先輩等と日本酒を飲み、生まれて始めて二日酔いをした。禁酒の後なので酷かった我、幸いそれが唯一の二日酔いとなった。 一度、これは来年の個展は無理だ、とキャンセルをお願いに行ったが、ギャラリーも、そんな連中を沢山見てきたのであろう。こちらから言い出す前に諭され帰った。その日からどういう訳か、制作は順調に進んだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »