明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



『半俗半僧、身長一丈余、面相あくまで赤く、高鼻乱髪白衣に身をつヽみ、金色の袈裟を肩に、木杖を携え、その姿あたかも猿田彦そのままの一老人なり』修験道の修行をした方にメールで質問したりして、結局左手に杖を持ち、右手で刀印を結び、発する霊力。荒海や燃え盛る炎に向けたくはあるが、火と水という、陰影のない石塚式ピクトリアリズムでいずれも苦手なモチーフ。陰影あった頃は、霊力を使うことなく一晩で金閣寺を炎上させた私だったが。ギター奏法でも特殊な奏法になると、曲を選ぶこともあるという。 その代わり、たとえば半僧坊の全身から四方八方放射状の光を発する図というのは可能であろう。そうすれば、粘土がなくて一日イライラしたのも、このためだったのだ。となる手はずである。





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制作を始めた頃から、作りたいのに、わざわざ他のことしたり自分を焦らし、制作の快感をより高めよう、というヘキがある。おかげで獲物に齧りつくように集中力が増し、完成が早いのも事実ではある。昨日粘土がないことに気付き、自動的に、そんな状態である。しかし効果を狙ってのこととは大分違う。朝からアマゾンの発送状況を確認し続ける。 いつの時代に描かれたか、方広寺の摺物をもとに頭部を制作した。これぞ半僧坊という物が残っているなら、あえてそれに準じるのも良い。ならば立ち姿も同じポーズで、と決めていたのだが、粘土を待つ間に虫がわき始める。 半僧坊は厄難消除、海上安全、火災消除の霊力を持つ。真言は〝オン・ナンノウチリチリ・ソワカ“。ならば荒れた海原や燃え盛る炎に向け、刀印を結んで霊力を発しているのはどうか? 吉と出れば、昨日は粘土がなくて良かった、と親戚の小学生にオセロを挑まれても対戦を拒否するほどの、私の負けず嫌いも収まることになろう。

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本日から半僧坊の首から下を作るつもりで昼食後、さて粘土を、とダンボール箱を覗くと別の物が。ずっと粘土が入っていると思い込んでいた。頭に血が上る。ヘソ下三寸のもう一人の私は作ることになるとせっかちに変身する。かといって咳が出るので外出を控えている。仕方なくアマゾンで注文。蘭渓道隆、無学祖元のなんというのか、袈裟に着いてる輪っかを作る。こういう形の決まった、製品的な物を作るのが苦手である。なので架空のジャズ、ブルース、ミュージシャンで個展デビューしたのに、楽器製作でウンザリし、翌年の個展では楽器ケースを持たせる、という策を考えた。しかしそれも面倒になり、『アフターアワーズ』とかタイトル付けて、何も持たない演奏後の人物多くなった。そもそも私のようなぶきっちょがやるようなことではないいのだろう。 本日は早めに飲酒。失敗したら、悔しいので、失敗して良かったと思うまで許さない。半僧坊も袈裟を着ているのだから輪っかが要るんだった。と寝床で気付く。


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一日  


他の連中を仕上げ、着彩を済ますべきだが、明日から半僧坊の全体に取り掛かりたい。作りながら蘭渓道隆と無学祖元、一休宗純の法衣の部品を作り、仕上げたい。余計なことを始めてしまうので、完成が遅れてしまうのだが。 半僧坊は、ウェーブがかかったモジャモジャとした髪で、髭も含め妙な形だと思っていたが、それは後ろの髪が、周りこみ、髭などと重なっているためだと解釈。陰影のない線描画、西洋画と違って、説明ははぶかれている。陰影があってもクラナッハのように解剖学的にめちゃくちゃなのもあるが、あれはあれが良い。好きだったクラナッハも、上野で展覧会があったが、結局行かずじまいだった。もう見る方はいいや、という事だな、と思った。人混みがますます苦手になっているし。 最近一週間に一回は救急車のサイレンを聞いている。マスクをしている人も増えた。

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それにしても何で私は権現様を作っているのだろうか? 権現様は全国各地にある。仏や菩薩が仮の姿となって人々を救う。天狗や不動明王のような、あるいは混ざったような様々な姿をしている。半僧坊は顔は天狗のようだが、由来の浜松は方広寺の開山、無文元選禅師が中国からの帰途、嵐に会うが、そこに現れ無事に船を導く。そんなところは天狗の原型ともいわれ、日本神話のなかで、進むべき道を照らす道ひらきの神とされるまさに猿田彦だろう。 私も要領は判っている。本来グズグしている私とは違う、ヘソ下三寸あたりのもう一人の私が発動し、作りたい、と思ってしまえば、人間イメージした物を作るように出来ている、という養老孟司いうところの仕組みによって作ることになる。そして完成するまでに、いや遅くとも発表するまでに、熟孝の末に作ることを決め、完成したのだ、いう顔をする、というお馴染みの工程 を踏んでいる訳である。



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一日  


最近、ユーチューブで坊様の法話をよく聴くのだが、名調子に感心することが多い。中国からの渡来僧 を作ったが、日本から相当な数の僧が大陸に渡っている。当時の最新の文化 を学び帰国する訳だが、大陸側の支配民族が次々と変わる中での話しである。また興味深い人物も多い。しかし興味を持つのは良いが、残りの時間を考えなければならない。これまでに、ようやく三つ目のモチーフを始めたに過ぎない。手法もようやく大リーグボール3号である。とにかくヘソ下三寸に居るもう一人の私は需要もかかる時間もお構いなしなので、程度の悪い頭で、ブレーキ をかけなければならない。手法に関してはもうさすがに4号はないだろうし、文字情報からイメージが湧くことが多いので、余計な読書は止めるべきだろう。余程のことがない限り小説を読むこともないかもしれない。とにかく時間が経つのは早い。本田三姉妹というのは知っていたが、長女ばかりであの子役はどうした、と思っていたら長女と思っていたのがそれだった。



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96年、初めて画廊で写真を発表した時、被写体が目の前にあるのに、人間を撮った実写だと間違った人がいた。わざわざ人形作って現実の模倣などまっぴらである。作り物でないと出来ないものを、と翌年作家シリーズに転向した。当時はアナログで、澁澤龍彦をオウム貝に乗せて空を飛ばしたり。谷崎は巨大なヌードと共演させた。仮にあの時、実写に間違われたことを良しとしたなら。人間変われるうちが華、という風船体質でなかったなら、今頃、まさかこんな時代が来るとは、と断末魔と共にAI技術の波に飲みこまれて行ったかもしれない。石塚式ピクトリアリズムは、まことを写すカメラで撮ったにも関わらず、私のイメージ内のまことしか登場しない。かつての西洋絵画の影響を受けたピクトリアリズム(絵画主義写真)とは趣きは違うけれど、やってる本人が絵に見えるから、ピクトリアリズムには違いないだろう。何より、この手法なくして寒山拾得も半僧坊大権現もなかった。

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奥山半僧坊大権現で木版により刷られた半僧坊は、その元になった下絵は、画風からして明治より以前に描かれたものだろう。鼻高く、目の色薄く、頭頂部に毛がなく、ウエーブのかかった髪。この異人のモデルとなったのは、世界中の、あらゆる辺境にまで足を伸ばし、現地人にパンツを履かせて回った白人の宣教師ではないか?昔の日本では、異人の象徴だったろう。だとしたら髪や髭は伸び放題、ズボラな宣教師である。 頭部に関しては、できるだけそのまま立体化したいが、デフォルメされた、日本的遠近感のもとに描かれた線描画である。辻褄が合わない場合がある。解釈が必要となる。

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明治3年の木版で刷られた方広寺の半僧坊は、老白人に見えると書いたが、線描ではあるが瞳に色をささず、白髪といわれた髪はウェーブがかかり、ほとんど白人である。鼻の高さは、当時は天狗の如く見えたかもしれない。テンガロンハットでも被せればサザンロックのベテランミュージシャンに見えなくもない。 蝦蟇仙人を作った時、蝦蟇仙人が、カエル顔である必要はないことに気が付いた時には、すでに出来てしまった。日本中国で星の数ほど描かれ、日本では忍者の児雷也に変じたりしたモチーフである。一方、半僧坊は、静岡の方広寺、奥山半憎坊大権現が大元で、明治時代は大人気で門前市を成したそうである。そこで中国土産として親しまれた、寒山寺の寒山拾得の拓本と同様に売られたであろう摺物の絵を立体化している。建長寺の半僧坊でも護符と共に半僧坊御姿絵として入手できる。これぞという物があるならば。それに準じた方が面白い。立体化されていなければなおさらである。

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昨日、火災に巻き込まれたら、人形の首だけ引っこ抜いて逃げると書いたが、今作っている半僧坊は、静岡の方広寺の奥山半僧坊大権現が大元で、大火の際燃えなかったことから火伏しのご利益が脚光を浴び、全国に広がったので、半憎坊を作りながら火事に遭うわけには行かない。 方広寺の開祖無門元選が中国からの帰途嵐に遭い、一心に観音経を読んでいると、現れて助けたのが袈裟をまとった鼻の高い異人で、3メートルはあったらしい。無事帰ると再び現れ、無門師に弟子入りを願い出る。「汝、半ば僧に似たる所あり」。そこから半僧坊と称するようになる。方広寺から明治時代勧請(神仏の分霊を場所を移し祀る)したのが建長寺の半僧坊大権現である。十数体の山伏姿の天狗が守っている。 明治3年に方広寺で刷られた物を見ると、袈裟をまとい、鼻の高い猿田彦のように描かれている。瞳の色も薄く、どちらかというと老白人のようである。これがイメージの元のようである。リアルに作られた立体がないな、と思ったとたん、せっかちな、ヘソ下三寸のもう一人の私が発動す。

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一日  


母の入っている施設にしばらくコロナが出続けていて中々顔を見に行けない。母も2度目の陽性となった。棟続きで病院なので対応は早い。幸い今回も無症状で、元気で歌を歌っているという。こういう時、電話の相手は笑っているので、様子が想像でき、また調子に乗っているのだろう。ご迷惑かけて、といいたくなってしまう。長らく商売をやっていたせいで、息子の言うことは聞かないくせに、外ズラは良い。おかげで楽しげにやっているから、その点に限れば助かっている。 私は外出をあまりしないわりに、咳が続くので、冷凍食品や調味料もアマゾンで取り寄せ、外出をさらに控えている。どうせ取り寄せるなら、聞いたことがない、地方のメーカーを選んでいる。便利になった。 どうせやるなら、死ぬ寸前までやれる仕事が良いと昔から思っていたが、足腰立たなくなっても、玄関までたどり付ければ、何とかなりそうである。火災にでも巻き込まれたら、何を置いても、作品から首だけ引っこ抜いて逃げようと、それだけは決めている。

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先週まで思いもしなかったものを作ろうとしている。何で?というのはグズな表層の脳であって、ヘソ下三寸の私はせっかちである。建長寺の最深部に半僧坊大権現がある。この辺りは絶景だそうだが、山伏姿の天狗の銅像が並んでいる。元は、ある禅僧が中国での修行を終えた帰路、嵐にあう。それを救ったのが、赤い顔で高い鼻の天狗のような日本で言う猿田彦みたいな物だったらしい。袈裟を着け、半分僧のように見えたことから半僧坊となった。各地に大権現はあり、天狗、あるいは烏天狗、不動明王のようであったり様々だが、袈裟を身に着けた物は見当たらない。天狗ではなく、袈裟を身に着けた猿田彦調の大権現を作ってみよう。 夢を見た。明治時代、湖畔のほとりに停められた馬車の中で男が殺されている場面を制作しようとしていた。目が覚めながら〝何だ夢か、色々考えたのに“しかしこれを書きながらほとんど忘れている。江戸川乱歩は〝夜の夢こそまこと“といったが、夜の夢は忘れるが、昼の夢は作ることになるから厄介である。

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昨年より作り続けている建長寺開山、渡来僧である蘭渓道隆は、もっとも実像を描写していると思われる建長寺収蔵の肖像画だけを参考に作っている。ずいぶん前から完成間近、といってる気がするが、完成に至っていない。その原因は、どんな人物であったのか、良く知らないまま作っている、からであるのは明らかで、臨済宗の関係者の方にお会いする機会があり、その2日前だったか、夜中に寝ていて目が覚め、胃液を戻してしまった。〝やっぱり気にしているのだ“と思った。根も詰めすぎたし、と今は資料文献を読むことに費やしている。 『まるごと建長寺物語』(高井正俊著)で蘭渓道隆の『自ら回向返照して更に求めず』という言葉を知った。回向返照(えこうへんしょう)とは、法を求めて外の世界へ向かう自己のまなざしを、自らの内側を照らすように差し向かわせること。外の世界や他人のことに気を取られるな、自分を照らす光は自分自身の中に在るのだから。という。これはまさに、私が長年想い続けた〝外の世界にレンズを向けず、眉間にあてる念写が理想”を思わずにいられない。そして、それを可視化するために始めたのが、陰影のない石塚式ピクトリアリズムである。それにより、回向返照して更に求めず、といった人を人間大に拡大し、対面しようとしている。導かれているとしか思えない。

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最近根を詰めすぎたか、腰痛をかばうせいだろう。寝違えたように、肋骨辺りが痛い。主導権を握っている、へそ下三寸に居るもう一人の私も、所詮私の身体のウチに在る。一日寝床で資料を読むことにした。 人物を作る場合、見た目だけ似せても届かないものがある。しかしターゲットの人物を知ろうとすれば、関係の深い人物のことも目に入る。目に入ろうと、そちらの方向に入り込んではならない。まずは作りかけの人物を完成してからである。出来るだけ先の予定は立てないように心がけること。 そうはいっても、向こうから飛び込んで来るのは交通事故の如しで避けがたい。私は運転免許を持っていないが、おかげで人を轢き殺す可能性はない、と本気で安心して来たが、事故を避けるのなら読書は止めろ、ということになる。しかしどう考えても、これを作るのは私しかいないだろう、という物が目に入ってしまった。へそ下三寸が起動するのをまずは抑えるため本を閉じた。


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元々の始まりは高校の時のブルースブームであった。雑誌で見たブルースマン一覧の面構えに釘付けとなった。その頃はまだ巨匠がかろうじて生きていた。その後、作家シリーズに転向した。中年〜老人ばかり作って来たが、いずれの業界も、時代と共に容貌の個性が薄くなっていくように思える。そうこうして昨年、高僧を描いた頂相あるいは頂相彫刻が、人像表現の究極と思うに至った。数百年前の高僧の面立ちはいずれも個性的である。また霊力を伴った超現実的エピソードの数々。河井寛次郎の〝鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥”のように、そのために用意していたかのような、陰影を排除した手法。こんなことをさせる、ヘソ下三寸の私を全面的に信頼している。しかし、需要という物を全く考慮せず、ブレーキを備えていないので、性能の悪いもう一人の私は「何だか判らないけど作っちゃいました。」という顔をしている訳にはいかないので、最近入手した文献を熟読するのであった。

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