明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先週まで思いもしなかったものを作ろうとしている。何で?というのはグズな表層の脳であって、ヘソ下三寸の私はせっかちである。建長寺の最深部に半僧坊大権現がある。この辺りは絶景だそうだが、山伏姿の天狗の銅像が並んでいる。元は、ある禅僧が中国での修行を終えた帰路、嵐にあう。それを救ったのが、赤い顔で高い鼻の天狗のような日本で言う猿田彦みたいな物だったらしい。袈裟を着け、半分僧のように見えたことから半僧坊となった。各地に大権現はあり、天狗、あるいは烏天狗、不動明王のようであったり様々だが、袈裟を身に着けた物は見当たらない。天狗ではなく、袈裟を身に着けた猿田彦調の大権現を作ってみよう。 夢を見た。明治時代、湖畔のほとりに停められた馬車の中で男が殺されている場面を制作しようとしていた。目が覚めながら〝何だ夢か、色々考えたのに“しかしこれを書きながらほとんど忘れている。江戸川乱歩は〝夜の夢こそまこと“といったが、夜の夢は忘れるが、昼の夢は作ることになるから厄介である。

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昨年より作り続けている建長寺開山、渡来僧である蘭渓道隆は、もっとも実像を描写していると思われる建長寺収蔵の肖像画だけを参考に作っている。ずいぶん前から完成間近、といってる気がするが、完成に至っていない。その原因は、どんな人物であったのか、良く知らないまま作っている、からであるのは明らかで、臨済宗の関係者の方にお会いする機会があり、その2日前だったか、夜中に寝ていて目が覚め、胃液を戻してしまった。〝やっぱり気にしているのだ“と思った。根も詰めすぎたし、と今は資料文献を読むことに費やしている。 『まるごと建長寺物語』(高井正俊著)で蘭渓道隆の『自ら回向返照して更に求めず』という言葉を知った。回向返照(えこうへんしょう)とは、法を求めて外の世界へ向かう自己のまなざしを、自らの内側を照らすように差し向かわせること。外の世界や他人のことに気を取られるな、自分を照らす光は自分自身の中に在るのだから。という。これはまさに、私が長年想い続けた〝外の世界にレンズを向けず、眉間にあてる念写が理想”を思わずにいられない。そして、それを可視化するために始めたのが、陰影のない石塚式ピクトリアリズムである。それにより、回向返照して更に求めず、といった人を人間大に拡大し、対面しようとしている。導かれているとしか思えない。

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