僕の大好きな曲です
GARNET CROW: 夏の幻 〈Are You Ready To Lock On ?! ~livescope at JCB Hall~〉 =]
僕の大好きな曲です
GARNET CROW: 夏の幻 〈Are You Ready To Lock On ?! ~livescope at JCB Hall~〉 =]
息子が仕事について、早くも半年以上が経過。
「職場でどうなんだろう?」という親の心配を完全に裏切り、上司に可愛がられ、同僚には好かれ、一番難しいはずの人間関係で何ら悩むことなく過ごしている。
とうぜん、仕事は楽しいので、毎日、笑顔で帰宅。
職場の人間関係で問題すらないのなら、二年付き合っている婚約者との関係も当然良好であり、常に穏やかで有る以上、喧嘩すらした話すら聞かない。
普通なら、当然のように持つはずの人間関係に関する悩み、もっとも手強いはずのそれが息子には殆ど存在していないのですね。
僕は幼い頃から息子に対してはかなり厳しく接してきました。
厳しくと言うのは、訳の分らない体罰をしたり、その年齢で不釣り合いな無理難題を押しつけたりやらせたり、勉強を強要するようなことではなく。
あくまでも人という存在に対して正しい認識を持たせることだ。
現実をきちんと話し、そして随所でぶち当たる壁や問題に常に人としてどう対処すべきかという基本を教え、成長してからは本能を基に人はどう物事を考えるかについて説いてきた。
綺麗事をならべてその気にさせたり、誉めて育てたり、おだてて何かをやらせる等の、言うなれば子供を親の思うようする為の意図をはらんだ工作は一切していないのですね。
というか、こういった教育で子供を育てる事が狂気の沙汰でもあることを知っているからなのですが。
子供は成長に伴い、理想を教えられて、その理想を元にした社会と人間関係を頭に描きながら成長してきます。
学校もそうしていますし、社会全体もそれを良しとしています。
それそのものは基本として必要なものでし、それが正しいわけですが、それを父親が無思考のままで口当たりの良い部分だけに乗っかったり、評価したり、最悪なのは美化して諭すような事ですが、これは、降りかかる現実への対処能力を欠いた人間を育てるようなものです。
こうして育てられると 引きこもり、不登校、不出社、仕事に就かない等の問題が必ず起きてきます。
理想を他人から学ぶことはよい、しかし父親は子供達に社会の本質を垣間見せる窓のような存在でなくてはならないということですね。
ただ、こうした教育というのは非常に難しくもあり、当然周りの共達が理想を基本として育っているのに対し、家の子は現実も知りながら育ちますので、そこで対立やもめ事も起きやすく、特に中学へ上がってから始まった不良行動は目を覆いたくなるような事の連続でもありました。
周りの家庭で父親が皆同じなら、そんな行動等は起きないのですが、おりしも褒めて育てる教育全盛のころですから、「家だけおかしい!」という、息子の言葉に、それがよく現われていました。
息子が一気に方向転換することになったのは、素晴らしい人格を持つ人たちと知り合えたこと。
尊敬までしているその方達の考え方そのものが、僕と殆ど変わりがなかったことから、改めて親が何を伝えんとしていたのかという事に関して多くを学び考えさせられたようです。
人というのは、基本的本能をもとに性別という要素が加わり、そこに大人になるまでの経験と学習を積み、以降はそれを基礎にして様々な人たちと旨く交わりつつ人生の終演まで歩んでいくものです。
子供時代は可愛く、なんでも親の言うとおりなるものですから、とかく理想をかかげ、それに向かって清く正しくと育てるわけですが、思春期を迎えるころからそれまでの理想では解決できない現実というものに苦しむようになってきます。
母親は理想だけで子を育てても問題はないのですが、父親はそういうわけにはいきません。
ゆえに嫌われるのは父親であり、単にむかつくだけの母親とは異なって、嫌悪の対象そのものとなります。
思春期はそれまでの理想をもとにした教育の上に、自然がもたらす独立という要素が加わり自分たちを中心とした小さなコミュニティーを造り上げつつ、適度な間隔を保ちながら本能行動を押さえて共存することを学びます。
基本が自分たちの頭に描いた理想である以上、現実にある古くてダサイ社会の常識は見たくもありませんし、著しい成長と共に大人とさほど変わりなくなった身体は、常識なんて簡単にくつがえせるものだという誤った自信すらもたせます。
その代表たる父親はまさに排除すべき存在でもあるわけです。
そうであっても父親は凛として立ち続け、けしてへつらったりご機嫌取りなどしてはいけない。 正しい現実は正しい以上、間違いではないからですね。
昔の父親はみんなこうでした、僕の親父もやっぱりそうだったし。
そうした父親を横目に、しかしながら理想は理想で有る以上、現実に適合しない部分が出てくる。
この頃から仲間同士でもそれぞれの個性が出始め、それと共に摩擦も多数生じるわけですが、厳しい教育を受けてこなかった者はそれに耐える力がありませんから、少しずつ脱落を初め、それが引きこもりや不登校、という姿になります。
褒めて育てる教育、優しい子に育てる教育、こうした教育の台頭と同時に爆発的に増えたのは明らかなデータとしてあるわけですが、ここに来てそうした教育が間違いだという認識が広まってきたおかげで、現在は減少傾向になりました。
人と人の関係、すなわち人間関係は理想で解決できる事は殆ど無く、実際は人間同士で生じる物事、問題を如何に理解し、適正に対処処理していくかという事だけが全てです。
その際に優れた対処が出来れば、好かれ、信頼され、頼りにされますが、まともな対処が出来ねば嫌われ、疑われ、つまはじきにされ、子供の幸、不幸は全てこれによって別れ始めます
これを良い方向で処理できる子にするには、父親が幼い頃から人の本質をよく話し、その対処方法の基礎となるような知恵を少しずつ授けていく以外にはありません。
たとえその時に分らなくても、理解出来なくても、繰り返す言葉として血と肉にしてしまうわけです。
後の経験はそれらに関してどんどんと理解をうながし、頭の中に有ったバラバラが全てリンクされますから18歳になる頃までには対人関係における統合的知識として確立されます。
学習や、自己鍛錬などは、それによって必要と判断され、未来のために不可欠な物と認識されれば自発的にやり始めますので、こちらからやれと言う必要等ありません。 家は息子も娘もそうです。
しかし、その統合知識の礎となる物が無いままの、例えるなら母親に教育の全てを任せ、父親が人と接する事をほったらかしにしたり、逃げまわるような家庭で育った子は、人間性に大きな問題を抱えることが多く、それは当たり前なのですが、
最近は一般の認識でも理解されつつありますが、だからとて友達親子と言われるようなベタベタした存在に父親がなれば、これまたさらに大きな問題を抱えます。
現実社会は常に上下関係、見えない階級の様なものが頑固に存在し、それは人持つ本能そのものによって動かされているからなのですね。
残念ながら子供達に現実を教えてくれる人はいません、唯一親だけです。
です! ます! ハイ! ありがとうございました! から始まり、礼(正しく相手を理解する事)を基本としたものに、親の得た経験を分りやすくかみ砕きながら染みこませていく。
心を病む人が増えている今の社会、その原因は厳しさを消失した教育に有り、幼い頃からきちんと叱られないことが対人ストレスと戦うための基礎を失わせた事から来ています。
子のしたこと、行動に人間としての問題があれば、親として必ず不快を覚えますから、その不快のによって生じた感情のままで叱ればよいことなのですが、格好付けて感情を抑えこみ冷静に話したとて、それでは一番重要な人の持つ感情(心)の流れというものを我が子へ学ばせることは出来ません。
褒めて育てるという、自然な感情を不自然にねじまげる、いわゆる嘘感情の積み重ねにより子供を育てれば。
人の心など読めるはずもなくKY(空気読めない)だ等と笑われたりバカにされたり。
最悪なのは怒りの感情に接した時に、今自分の目の前にいる人間がどんな心の状態にあるかという事を判断する大切な経験がありませんから、見当違いの読み込みをしたあげくに、更に相手を激怒させることになり。
本人には理由も分らないのに、自分へ激しい怒りが幾度も向けられることから、他人という存在そのものが怖くなり、それが恐怖となり引きこもるようになる。
おやが嘘の感情で育てたとおりに、心の読めない人間へと育つわけで、これは自業自得なわけですが、それが親に向けば家庭内暴力、他人へ向けば逆ギレ。
どんなに親が我が子の間違いに怒りを感じたとて、親である以上は必ず手加減が入るのに、現実世界ではそうした覆い等が全く無いままででまともに相手は追突してくるわけですから、それを受け止め、理解し、必要かつ正しい答えを瞬時に出す事が出来る様になるためには、やはり親から正しく叱られてくる経験が無ければならないわけです。
親が子供にもたらすことのできる最大の教育に、人の感情(心)があります。
特に親の正しい怒りをどれだけ経験したかでその力(心の理解力)は大きく変わってきます。
これこれすると人はこんなに怒るのか、こんなことすると人はこんなに悲しむのか、とむき出しの人間という物を、親から安全に学ぶのです。
この経験が”褒めて育てる教育など”で乏しいと、人の持つ怒りというものを理解する力が著しく欠落し、怒りを単なる自分への攻撃としか捕らえることが出来ない貧祖な理解力になり、それが怒りには怒りでという考え方をよんでいく。
一例をあげるなら、会社で上司に叱られた時などに、逆恨みする人間と、それを旨く処理して高い評価を得る人間がいます。
叱られることは本来不快そのもので、しかしながら親に叱られた経験がそれには多大なる影響をおよぼしていて、きちんと叱られた経験はじっと耐えて上司の話を聞く訓練そのもの。
うんざりしながら親の小言を聞かされた経験は、上司の放つ言葉の意味を受け入れ理解する力となり、その時々で激しかったり、拍子抜けしたり、穏やかだったりという、自然な叱り方のパターンと親の姿は、自分の行った事に対する他人の怒りの種類というものを正しく理解させる。
こうした経験が、上司との関係を素晴らしい方向で改善する礎として生きてくるわけだ。
すなわち怒りの正しい表示である、親の叱る行為は、人の持つもっとも難しく重要な部分を子供に学ばせるわけで、これは又、他人と如何に素晴らしい人間関係を築けるかという点で、人の怒りをどこまで理解しているか?ということが重要であること、それに他ならないわけだ。
人生を豊かに過ごすためにもっとも大切な人間関係の難しさ、それを楽々こなしている息子の姿をみると、間違いだらけにしか思えない家の教育にも、良い部分も有ったのだろうと思う・・・・