帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

父親が強くなければ子供は不幸になる。

2012年04月09日 | Weblog

Yahoo!のニュースからです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120408-00000557-san-soci

沈められた湯の中で「私が死ねば、大好きなお父ちゃんは楽になる」

という記事。

 

人にはいろんな人生がありますが、こうした話を聞くと、本当に胸が痛くなります。

この記事の中の父親を特定して批判するわけではないのですが、父親というのは強くなければ

ならない。

”強くなければ”というのは、忍耐力と孤独、そして悲しみに対してのことです。

 

元来女性というのは自分の子供以外を慈しんだり愛して育てるように出来てない。

 

弥勒菩薩様のような女性等存在せず、非常に現実的で、ただただ自分の子だけが最優先というのが女の本能。

こうしたことに西洋型心理学や精神解析などはどなんら役に立たず、唯一人の本能だけが事実を

教えてくれるわけですが、この差異というのは、猿の群れを見ていると良く分る。

 

オスは前ボスざるの地位にとって変わると、そのDNAを引き継いでいて、自ら逃げることの出来ない前ボス猿の子を全て殺傷する。

そして多数のメスと交配し、それぞれのメスに子供を生ませ、生まれてきた子供は母親がそれぞれ違えど、特例を除いて万遍なく面倒を見る。

ただし、その面倒の見方はベタベタとではなく有る程度の距離をおいてのことだ。

メスの持つ保護及び子育て本能に大半を任せて、オスは小猿が群れのルールを破ったような時だけ厳しい態度にでる。

人間の父親と同じで、社会性という面からの保護を中心としているわけです。

 

それでは、メス猿は?というなら、自分の子供をいつくしむが、他の子には比較対象としての興味以外はほとんど無く、ただただ我が子を他の子よりすぐれた子へ育てようとする。

 

時折、まだ子を持たないメスや、子を亡くしたメス等が、母親を失った孤独な小猿を自分の子のように育てる美談を聞くが、この現実は「自分に子供が出来るという事実を持って、そうした子を平然と捨て去る。

猿の場合は成長速度が速く、次の子を懐妊して生まれ出る間には、有る程度自分で生きていけるまでになるから良いのだが、人間の場合はそう行かない。

世の中を見渡してみると、子供の虐待はほぼ間違いなく連れ子に対して行われており、自分の子を粗末にして連れ子を可愛がった話など聞いた事が無い。

伴侶を失い、尚且つ子供が幼い場合に、不憫だと言って「新たな母親を・・・」と世の中はなりがちであるが、理性はあくまで本能の上に乗っかっている不安定なもので、その生活が豊かでなんら不満のないものであるなら、危ういバランスの上に家族の平穏はなんとか成り立つ。

しかしながらそうでない場合、本能が持つ生き残りのためのトリガーが働きっぱなしになることから、ほぼ100%虐待は起こる。

メディアをにぎわす虐待事件報道をみていると、ほぼ十中八九は父親が無職、もしくは収入があっても生活に貧窮している家庭ばかりである。

こうした、どうすることも出来ない危険性(人の本能)を誰も話さず、教えず、あたかもそうした話など、してはいけないのだというような眼に見えないルールのなか、

自分の能力を冷静に量ることもせずに、ただ安直に自分を信じて目の前にある性的欲望及び生活の至便、なにより忍耐が必要である子育てを新たな伴侶に任せることが、こうした悲劇のもとになる。

この父親がはたしてそこまで考えて相手を選んでいたのか? は文面を見るだけでは解らないが、継母の虐待を知って以降、我が子に対してとったこの父親の行動を見ている限りは、その可能性は無いように思えてしまう。

父親は強くなければならない、僅かに幸運が有ったとするなら、前妻が世を去った時に一番下の子はすでに5歳である。

一番大変な時期を通り越し、子ども自身が安定する年令ゆえに、あえて継母をもらう必要等は、本来はない。

この父親が不幸だったのは、この父親自身が子供の頃に両親と生き別れ、施設で育ったことで本来あるべき父親の姿を学ばずに育ってしまったことにあった事と、さらには結婚して子供を授かった後に、伴侶(妻)を失うという二つが重なったことだ。

それが無ければ、優しい父親という姿の元で、この3人の子供達は成長していけたであろう。

しかしながら、現実がこれを許さなかった・・・

 

こうした際に、”強い父親”、すなわち忍耐と孤独に耐える姿を見て育ってないと、人間関係の難しい関係を安定させることは難しくなる。

本来、”父親とはそうしたものなのだ”、という基底意識が出来ないと、普通よりもはるかに苦しむことにもなる。

これは、大変難しいことで、新たな家庭で起こりえる未来の事態を予測することを阻ませ、そうしておいて、現実に虐待というような現実が目の前におきるとパニックを起こし、どうしても在らぬ方向へ逃げを求めるようになる。

前妻の子供と、新たな我が子の事を思い、双方の間でもがき苦しむのは、父親であるなら当然の事だと思う。

継母の虐待が理由で容易に離婚をした場合、それは父親の心の中に、自分が育ってきた人生を思い起こさせるわけで、さらには、おそらく辛かったであろう経験をどちらかの側の”我が子”にもたらさねばならなくなるわけあって、そうした苦しみからアルコールに逃げを求めたというのは至極当然の事でもあるのですね。

 

ただ、男は強く、又非情でなければならない時が必ず求められる。

酒に身を投じたところで、現実の解決に等一切ならず、必要な判断を冷徹にこなし、悩むことなく判断をせねば、全てが崩れていく一方となり、ただただ混乱だけが拡大していくことになる。

もし、この父親の立場がに自分がいたとして話すが、この場合は至極当然に別居すべきであり、父親としては前妻の子とメインで暮らし、継母とは必要に応じて会うことにするだろう。

24時間顔を付き合わせれば上手くいかないことも、適度に間を置けば上手くいくことは多々有る。

しかしながらこの継母が、前妻の子を追い出し(施設などに預ける)て自分と同居することを求めてきたのなら、はっきりと離婚すべきである。

なぜなら、この継母はあらかじめ3人の子供がいることを承知の上で家庭に入ったわけだから、

その3人の子供に対し、”人として”の接し方や対応が到底出来無いのであれば、親としての最低の責務を放棄しているわけで、家庭を維持する事はできない。

結婚は互いが互いに課せられる責務を忠実に担うことで平穏な家庭が築かれる、

 

それをどちらかが一方的に担わない、担う気すら無いのなら、それはすでに家庭という形をなすことさえ不可能なわけで、そんな状態で未来を歩んでいくことは、家族全員が不幸になることを約束するようなものだ。

愛さえ有れば何とかなる、などというのはくだらない幻想であり、又それほど甘ったれたものは無い。

結婚生活は現実の塊以外の、何物でも無いからだ。

 

親として、子供達が健全に、そして心安らかに成長していけるようにすることは、その人間(親)の人生の中で最大のテーマに取り組むという事であり、一生と言う時間を費やして構築していくものでもあって、その重大な責務を完遂させて、子供達を世に中に羽ばたかせていけなければ、

人間として大きな失敗をした事になる。

 

逃げはなんらの解決をもたらさず、常に前を向いて戦うのが男であり、万が一その過程で敗北したり、崩れたとしても、そうした姿を見ていた子供達は、そこから多くの事を学び、とてつもなく素晴らしい勉強をもすることになる。

 

それが父親に課せられる生き方ではないか? そう僕は思うわけです。

最後に、この父親の母というのが、記事の最後に出てくるけれど、

男性というのは、基本的に母親の面影を常に追い続ける生き物で、我が子の死とその子供達

よりも歯医者の予約のほうが大事な女性である。

この話の父親は、継母として、そうした自分の母親に似た女性を知らない間に選んでしまったのではないか? そう僕にはおもえるわけだ。

だとすれば、それ自体に罪はないと言えるのかもしれないが・・・