後もう少しで八ヶ月になる孫、この一月の変化ですが、相変わらず昼寝の時間が極端に短い。
ここ数日でつかまり立ちし、こたつテーブルにつかまっている場合だと、そのままテーブルの上の欲しい物を取るために横へ移動していきます。
ハイハイはお手の物になってきていますので、広いリビングを自由に這い回っては手にする物全てに触れている。
他に絵本が大好きになり、特に音に関する単純なのが大好き。
もちろん絵本をさわったら音が出るような無機質な物ではなくて、僕が絵本の中に表現されている音を手と足、色々な小物をつかって再現するわけですが、
メチャメチャ喜びますので、何度でもやってしまう僕←バカじじい(笑)
僕が指で指す方向と物をすでに認識できており、それゆえ色々な物を指し示して名前をやたらメタラと教えますが、分かるはずもないだろう・・
なんて思いつつも、絵本もそうですが、分かろうが分かるまいがまったく関係なく、こっちが楽しいからやっているというか(笑)
そう言えば、だいぶ前から始まっていた人見知りは、相手を見て単なる泣くから、自分の仕草で相手がどんな顔をするかを見極めながらやっている段階に移行したようです。
*乳児ですから別に高度な目的を持ってやっているはず等ありません。
人の顔色から相手がどんな感情をもっているかという、人が社会生活を営んでいく上において絶対に欠かすことの出来ない読心訓練を本能がさせているという、
きちんとした(正常に育っている)証拠ですが、これが豊かな喜怒哀楽に結びつく。
親の顔色を常に見て育つことは何より大切で、特に叱られる際に向けられる親の顔に存在する心の中の怒り(怒り無く叱る事は、なんら読心訓練になりません)を通し、
何を考えているのか?感じているのか?を微細に読み取る訓練(教育)をきちんと受けて育たなかった子はかならず将来不幸になる。
六ヶ月から一〇ヶ月の間に必ず起こる人見知りはその為の基礎中の基礎をはぐくんでいく時期でもあるのですね。
ただ、この時期は自分に向けられる愛情だけしか学べません(当然です)ので、虐待を受けるような訳の分からない怒り(暴力)にさらされながらこの時期を過ぎると、
健全な精神はまったく育ちません。
人は、まずあたたかい心を含んだ笑顔とやさしさ、これが一番初めに学ぶべき事であり、その次に悲しみ、最後にもっとも難しい怒りを理解していくという段階を踏んで成長するわけです。
そのなかでももっとも大きな段が、まずは第一次反抗期、これにより怒りの存在という物を完全に認識し、以降さまざまな形のストレートな怒り表現に接しながら成長していく。
第二次反抗期は、一時反抗期との間で学んできた、人のもつ基本的な怒りの種類を総轄整理するために有る。
同時に、冷たい怒りや、隠された怒り、いわゆる面従腹背的怒りの様なさらに高度な怒りを学ぶために存在し、
これによって”人の持つ最も本能的”でありながらも大脳新皮質が織りなす非常に複雑になった感情 ”人間としての怒”を理解できるようになり、
またそれを上手にコントロール出来るようにもなる。
よく叱らない教育を推し進めているおかしな教育評論家や、学者、精神科医がいますが、
これは上記に書いた大切な心のトレーニング時間を奪うことそのものであり、こうして育てられてしまうと 人の心の中にある 怒りに際限ない恐怖を覚えるだけとなり。
初めは”すぐに切れる子”、そして結果としての 無気力や引きこもり となって現れる。
何ら難しくはなく、心の闇でも何でもなく、単に有るはずだったトレーニングを親がさせなかったというだけのことでしか有りません。
さて、余計な話は置いておいて、八ヶ月間近の子でも怒りの感情という物が存在しているんですよね。
ハイハイして自分の思う方向に行こうとするのを背中つかんで阻止すると泣いて怒る。
目の前におもちゃをおいて取りに行ってつかむ寸前にさっと取り上げる(意地悪なので一度限り)と、やはり泣いて怒る。
単純ながらも、泣きながら相手を叩いたりもする。
怒り=攻撃 ですから、これを上手にコントロール出来るように親は育てていくのですが、叩いたことを叩き返すような育て方は厳禁ですから、何度でも根気よく「駄目なんだよ」とさとしていくわけです。
*上の例はこちらの悪戯でこちらが悪いよね
でも、こうした教育は新米パパとママの仕事。
”僕は一切口を出しません”、というか、ジジイはどうも甘やかすだけになりそうでして、自分が子供達にやってきた当時の厳しさはどこえやら(爆笑)