帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

海の魅力

2008年04月14日 | 花の写真
海の魅力って何だろうと思うことが多々あります。
高校生の時に戸田湾をかけ声と供に遠泳し、スクーバダイビングのライセンスをとってモルディブの海にはまり、今はウインドサーフィンで風になる。

成り上がると締められ、謙虚でいると手招きしてくれる。
そうそう太陽も忘れちゃいけないんだよね、これが・・・

週末は駄目だった、「来週は晴れますように!」

数ミリの花

2008年04月14日 | 花の写真
大きさにしてわずか数ミリの花、誰にも知られず咲いています。

実はこうした花が結構好きです、消して目立たず、派手でも無く、

でも一生懸命。

何か人間に似ていますね、

さりげない処にいて、でもよくみると可愛くて、輝いていて・・・


雨なんだよね

2008年04月13日 | ウインドサーフィン 
昨日の温かい陽気から一転、寒いし雨は降ってるしで、ウインドに行く気も起きない。

こればかりは自然現象とは分っているもの、乗り始めと張り切っていた分だけ落ち込みも激しい。

今日はどうしょうか・・・

輝きの季節

2008年04月12日 | 花の写真
桜の花も終わり、それを合図にしていっせいに木々が緑色の葉で覆われつつあります。

僕はそれぞれの季節に良いところがあると思っていますが、そのなかでも特にこの季節のこうした一瞬、雨上がりに温かい南風、太陽に覆われて水滴がキラキラと反射して輝く緑がすきです。

そういえばこのブログに貼り付けている写真が少し変ったのにお気づきでしょうか? 8日の日記から変っています。

一番初めは携帯電話の911SH(200万画素)、次に510万画素の910SH(これはこのブログで使用しています)、そして今回一眼レフのFZ8に変更。

買って使わないのだけは避けたかったので、最新のは避け出来るだけ安価で手に入れられる昨年のモデル。
背中のバッグに入れて単車でもちあるくので、出来るだけ軽くて振動に耐えねばならず、最後まで候補にあったFinePix 9000と比較した結果こちらにしました。

これまで本格的なカメラなど持った事はありませんから、絞りがどうとか、シャッタースピード云々とか全く分りません。

いろいろ写してみてはいますが、感覚的として掴まないと、どうもこうしたものは駄目なようです。

本当はフルの写真をアップしたいと思うわけですが、Gooの画像取り扱い能力に限界有りでリサイズしたものしか載せられません。

かなり違いは有るのですが、911SHと余り変わり無く見えてしまうのが残念です(笑)

伝書鳩

2008年04月11日 | Weblog
伝書鳩

昨日の朝のことですが、敷地に伝書鳩の死骸が有りました。
職場の空を時折舞っている大鷹にやられたのですね、
こうした事が年に何度もあります。

見つけたのは昨日の早朝、車をおりて、近くによると足に登録番号らしきものと、
所有者の名前と電話番号を書いたものが取り付けられていました。

一瞬取り外して持ち主に連絡しようとはおもいましたが、以前これで非常に嫌な目にあったことがあり、それ以降まったく無視し続けています。

案の定今日の朝には有りませんでしたから、猫か他の動物のえさになったのだと思います。

ほんとうなら連絡してあげたいのですが・・・・

数年前に同じような事があり、その気に血まみれの鳩から、指先を同じく血に染めながら登録票をはずし、持ち主の所に連絡をしたことがあります。

可愛がっていた鳩であろうという思いから、とにかく最後の連絡だけはしなければならないと思ったわけえですが。
そのとき電話のむこうから返されてきた言葉は次のようなものでした。

相手:「はいはいはい、ああそうですか、それじゃ・・・・」

僕:「ちょっと待ってください、遺骸はどうしましょうか?」

相手:「ああ、適当に処分してください」

僕:「認識票が有るのですが・・・」

相手:「ああそうですか、それじゃ」

ガチャンというわけです。

まがいなりにも一つの命が消えた、私は連絡した、それに対しての応答がこれでは、なぜ自分は連絡したのか? 何のために認識票がついているのか?

電話の後もちろん私はこの鳩を自分なりに丁寧にほうむりましたが、その後にこみ上げてくる怒り、可愛がっていたのではないのか? 

それ以降、同じような姿を見たとしても、野生の鳩と同じく、自然のルールの一つとして考え、成り行きに任せることにしています。

本当は辛いのですが・・・


謝れるということは怒りをコントロールすること その2

2008年04月10日 | 研究-教育・育児
礼を重んじることで、初めて安定した子供たちの社会が学校に形成されるわけですが、これが本能により社会を形成する人間の“自然”な姿です。

さて、そうした基礎的社会集団が、いくら優れた安定を持つものであったとしても。
その構成員たる個々の子供たちはそれぞれ異なるわけですが、集団としての品質を維持する事も本能であり、それぞれの行動に対する許容範囲(基本は防御本能)というものは当然に存在しています(これが発展すると法律になる)。

社会構成の本質は安定ですから、それを仲間の一人だけがかき乱すようなことを重ねるばあい、それは当人だけに留まるものではなく、集団としての利益を損なう物として子供たちに共通で認識されるようになります。

なぜそれが利益を損なうか?というなら、人は基本的に上下を作り出す生き物で、
それが正しい方向へ運用されれば問題は有りませんが、正しくない方向へ運用されることもしばしばある。
正しく運用されれば、人の心を豊かにして強い絆を作り出していくものですが、正しく運用されねば、壊れやすくて非常に冷たい人間関係を生み出します。

一人の人間が、ある社会の構成員として過ごしていくということは、そこに必ず心のぶつかり合いというものは存在するわけであって、それは在る時は自分が正しくて向こうに過ちがあり、また逆に自分が間違いで向こうが正しいということを交互に繰り返しつつ、互いに謝罪や感謝の言葉を通して全体のバランス補いつつ総合的な力となってそこに有るわけです。

実はここにも礼が有り、たとえ感情に走って大きな心のすれ違いが生じたとしても、時間が経過して冷静になるにしたがい自分の正誤というものがみえてくるわけで、解らなくても友達が諭してくれることもあるし、親や先生が教えてくれることもある。
礼は相手を正しく評価することですから(だから日本古来の相撲や武術は互いの礼を重んじる)。

そしてそれは自分自身の礼を育てる事でもあり、明らかに自分に非があれば、そこには自分に対する礼が要求されるわけで、
すなわち自分の沸きあがる怒りの感情を理解しコントロールし、取った行動の何たるかを見つめる力というものが必要となるわけです。

以前も書いていますが、褒めて育てる・叱らない教育は、こうした怒りの感情をコントロールする力を育てないどころか(当然に礼が育つことは全くない)、不必要に褒めることにより(こうした教育法を薦める者は、褒める事の意味は”子供を賛美することだ”と平然に言い放つものさえいます)、自分は他の子より優れているのだ、偉いのだというすり込みを幼い頃から徹底されながら育ちます。

まさに多くの犯罪の基となる恐怖の教育法そのものですが、

*注意 私は自然な感情により褒める事をおおいに肯定しています。
“不正な褒める”をやめろといっているだけですから、間違えないでくださいね。

謝るという事は、それそのものが力であり高い能力を要求されることで、
なぜなら、まずは自分というものを冷静に分析して鑑みる力(自分を二つにわけて間違いのある自分をへりくだらせ礼をとる)と、相手の気持ちを思いやる力、そして謝るに必要な自分の怒りの感情を制御することが出来て初めて成り立つもの、それは人間らしさそのもの、といってもいい訳です。

繰り返すようですが、謝れないという事は自分に対しての礼が作り出せないということであって、人格としては致命的欠陥となります。

当然にすれ違いのあった相手や、当事者達を見つめる周り者からすれば、起きている事の判断は初めから冷静で有り、謝れないということが社会秩序を破壊する可能性があると捕らえるのが普通ですから、謝れない人間=異物=害悪、そしてそれを正そうとする行動が起きる、そのもっとも基本的本能行動がいじめというわけです。

まだ思考の幼い年齢であるなら、いじめと供にダイレクトな言葉も発せられることが多いですから、この段階で自分の過ちに気が付いて正す事もできますが、
思春期になると、いじめる側も自分を守ろうとする気持が出てきますし、相手に直接的な言葉で伝えることで深く傷つける(このことばでやたらと大騒ぎしてさらに事態を悪くもしている)可能性を考えて遠慮するようになります。
なにより、人間関係が複雑化しますから、あえて大きな紛争を引き起こしてまで礼の無い物を諭そうとは思わないわけです。

だから難しくなるわけですが、間接的にメッセージを放って相手が悟ってくれる事を望むものの、当然に無理もしていますので、その分不快の感情も強くなりますからどうしてもいじめはエスカレートします。

この段階で先生や大人がいじめを止めさせようとしても、社会を構成して秩序を保とうとする“人の本能”がそもそもの行動を起こさせているわけですから。
簡単に収まるはずがない・・・


更に問題なのは、今度はいじめる側の礼の能力というものがここでも関係してくるわけで、いじめるにしてもいじめられるにしても、その行動の発生原因である“怒り”は共通ですから。
今のように叱ることを家庭でも学校でも社会からも排除する環境で育てばおのずと怒りを制御する能力を育てない“褒めて育てる・叱らない教育”と似たような状態となり、全体の歯止めが効かず、相手が死ぬまでエスカレートする。
それが今の子供達の姿と云うことです。

怒りを処理する能力は正しく褒め、正しく叱る、ことで育ち、
そしてそれにより感情制御が出来ることがきちんと謝るという正しい行動を起こさせるわけです。

怒りのコントロールが適切に出来れば凄惨ないじめ等なくなるわけで、事の解決その物は本来難しくもなんともないものなのです。

毎日のように起きる、いまだ有効な対策も打てない凄惨ないじめ、
その原因が甘い理想を語った卓上理論を信じた事に全て起因しているのだということを、みんなが早く気づかねばならないわけですが・・・

 


謝れるということは怒りをコントロールすること その1

2008年04月09日 | 研究-教育・育児

子供がいじめられる原因の一つに、自分が悪いと思っても相手に謝れないということがあります。
小学校低学年くらいだと、なんとなく時間の経過と供にうやむやになったり、相手が謝ってくれたりということで何とかなりますが、思春期を迎える頃になると、そうは行かなくなってきます。

というのは、思考能力の成長と供に、それぞれが共通認識として持ちうる問題をどう解決出来るか?ということが、その人間を見る物差になっていくからです。

すなわち相手の人格というものを意識し始めるわけですね。

いじめの問題が凄惨になってくるのは思春期を迎える頃からですが、
それ以前のいじめはそこまでの認識がないからで自然とブレーキがかかるようになっています。

ところが、年齢が増すごとに先の学校や友達関係における社会認識、すなわち大人の社会へ参加する為の予備的な基礎社会集団というかたちを本能が認識し始めるわけで、同時にその社会を維持する為の制裁的価値観という物も構成されるように人間は出来ています。

子供同士の中でその集団を安定させる暗黙のルールというものが出来てくるわけですが、まだ経済的な概念を大量に盛り込んで構成されている大人の法律というものをあてはめることは出来ませんし、そうした意識もありませんから、その代わりにごく身近な者をルールとして置く事で安定をとろうとします。
代表的なものとしては先生という存在があり、クラスを初めとして友達関係にまでその影響が波及することは珍しいものではありません。
(故に体格的に同程度になるほど存在がうすれて難しくなるわけですが)

よく学級崩壊という言葉がきかれますが、この原因自体は非常に簡単なもので、
いうなれば先生に社会的正義を中心とした“礼”が無い場合、学級という社会の構成力が崩壊して起きるもので。

実際、一番顕著に崩壊する先生のタイプは当然ながらお友達先生なわけですが、それは次の理由からごく当たり前のこととして説明できます。

“礼”そのものは上から下への正当な評価であるのが本来の正しい意味で、評価する為の先生は明らかに子供たちより上の存在でなくてはならず、信頼と正しさが子供たちに安心を与えるわけです。
ですから先生はあくまでも上の立場、そして生徒は下の立場であるという上下関係がしっかりと確立されていないことには、そもそも成り立たない。

そうした上下関係は支配だとして、同じ立場を中心とした友達関係を先生が作り出すわけですが、したとて、子供たちは自分の都合よい愛情を得ることだけが目的となり、指導する立場としてもっとも正当な正しい評価(礼)を期待しなくなります。

ましてや教師はサービス業だなどと言い出すにいたっては。
先生が下、生徒は上、という逆転関係と、こうした学校における生徒の自由という言葉はたんなる無秩序にすり替わるわけです。

大雨

2008年04月09日 | バイク
昨日の雨には参りました。
バイクで通勤している自分には最悪、雨の量が凄いのも辛いですが、道にたまった水たまりをデカイトラックが派手にはねらかしてくれるのでそれが怖い。
前を走っていた二台がまるで消防車の放水を浴びたかのようにドカッとやられて、「こりゃ~まずい!」と慌ててもう一つ左車線に逃げますが、桜の花が咲くこの季節にこんなひどい雨が降るなんて事、子供の頃にあったかな・・・?

台風にも耐える米軍製のフィールドジャケットもブーツとグラブは無関係。
なんとなく惨めな気持ちで職場に到着し、後は電気ストーブで一日かけて乾かしましたが、夕方また雨の中を帰ることをすっかり忘れていた自分でした。

自己紹介

2008年04月09日 | 僕という人間 その他
と改めてするような者? では有りませんが、私が書く文章について少し。

基本的に誤字脱字、文章の区切りや表現の重複等をあまり気にしない人間です。
同じ読みの漢字を意図的に付して別の意味を載せたりもしますし、
とりあえず記載、後で見直して気付けば修正、その繰り返しを平然とやります。

というのは、こうした事にいちいち神経を使っていると書いているのが嫌に
なってきます。

思うことを書きたいのに、修正することが目的になるようでは本末転倒、と
自分勝手に思っているわけですが、

暇な学生(ごめんね)ならともかく、まがいなりにも仕事をしている身ですから、
そんなことを気にしている時間はないわけです。
そう考えると、毎日大量の文章を更新している人たちは、それが仕事なんでしょうね。   

有る意味うらやましい・・・

ですから、変な文だなとおもったら、暇なときにもう一度見てください。
多分? まともな文章になおっていますので。

「えへへ」   (^^;)〉ポリポリ

間違っちゃいね~か? 傷つくという意味

2008年04月08日 | 研究-教育・育児
最近、特にこの数年くらいのことですが、子供達の心を表す際にやたらと“傷ついた”という言葉を多用する傾向があります。

友達に苛められて傷ついた、学校で先生に叱られて傷ついた、テレビで放映された番組をみて傷ついたと、生きていくのに避けることの出来ないような些細な事にまでやたらと多用される“傷ついた”という言葉。

実は、「ほら可哀想でしょう」と云わんばかりのこの言葉そのものが私は大嫌いでして・・・。

言い方が悪いかもしれませんが、子供たちにはどんどんと傷つく経験をして、次から次へと傷を癒して立ち直ることを積み重ねつつ、自分の力で処方する技術と免疫を持ってもらいたいと思っています。

目の前で親が惨殺された、自動車事故にあうのを目の前で見てしまったというような、大人でも耐えることの困難なものを見てしまって傷ついたという言葉を使うのは分らなくもないわけですが、それ以外の普通に生きていれば当然にできる程度のものは傷つくというようなものではなく、単なる摩擦。

「どうしてこんなに傷つく事を恐れるようになってしまったのか?」
「そもそも傷つくという言葉の意味の解しかたと、使い方が間違ってるのではないだろうか?」


人として生きているという事、それそのものは、それは常に他人との摩擦の連続であり、そこにはその年齢と時代に応じた心の戦いというものが避け得ない絶対的存在として有るわけで、
たとえて云うならよく小学生は残酷だといいます、大人からすれば「ぎくっ!」とするようなことや「言い過ぎだろう・・・」ということを平然と口にします。

ただ、それはまだ思春期前の人格形成期間であれば当たり前のことであり、やがてその時期が来れば、言葉と意味を経験をふまえて統合学習しながら使わなくなるように出来ており、それは極自然な心の成長ということで、これもまた人の成長としては避け得ないわけです、

ところが、そうしたステップを経る形の成長を無視し、言うなれば大人の不要な介入(過干渉)により、あらゆる面に渡って傷つくからという言葉を根拠とした規制を引き、抑えつけようとする。

そもそも、人を思いやるという事そのものは、それに見合ったつらい思いや経験があるからこそ得えられるのであって。
その経験なくしては“思いやる”ということそのものが成立しないということ。

殴り合いの喧嘩をしたことが無い者に、手加減というものが備わらないように(だから最近の子は相手を殺傷してしまいます)、経験を伴わない知識としての傷つけない方法というものは、あくまでもテクニックの範囲であって、またそれをいくら上手く行使したとしても、そうした技術的なものだけで気持ちを伝えることなど出来はしません。

人間に必要な“経験”は、必要だからこそ“経験”する為にあるということです。

同じようにやさしさというものも、その人間に強さという背景があって初めてなりたち、そこにゆるぎない心の安定があるからこそ、人に話す言葉にしても態度にしても優しさが現れる。

よく「優しい子にするのだ」といって、親が都合よく物事を目隠ししたり捻じ曲げることが良く有りますが、
それが単なる人格形成においてのアンバランスを生み出しているのだということにほんとうは気づかねばなりません。

どうも、育児書はそういった事実を無視して理想論だけに終始している傾向があり、だから故に理想的に見えるわけですが、本来人間の持つ喜怒哀楽の感情をねじ曲げることがこうした書物の基本にあるわけでして。

理想をかたって、不自然な事実を発生されているということですが、
バランスの取れた現実的な経験を色々させないことは、思いやりも強さも両方得られないという事そのものでしかないのですがね・・・

どうも、少しでも子供が嫌な思いをし、それで多少でもふさぎ込んだり、泣きでもすると、本人より親が勝手に先回りして傷ついたと騒ぎ立て、また回りもそうした親に振り回されている。

これそのものは子供が自分で物事を解決させる能力を親が摘み取っているわけで、過保護のさきにある親の過干渉、そして他人との摩擦に何の抵抗力を身につけることのできない人間を成長させてしまっていることになるわけです。

昔は、強くなれと育てられたのが普通、「なんだ! そんなこと!」、「泣きいれてるんじゃないよ!」とグズグズしていると親から叱られたものですが、特に父親はそうした存在だった。
失恋にしても、昔はたくさん失恋してたくさん傷ついて、そしてそこから自分をしっかりとみつめられる人間に成長していくことが、幸福な家庭をつくる礎になるとされていた。
しころが、今は強くなることは暴力的なイメージとリンクされ、失恋を乗り越えろと下手に言うと無神経なやつされるために、そんなこと誰も言わなくなった。


いつのまにやら心の成長を促すという社会的な視点が失われ、甘やかしを優しさと混同している親が子供の顔色を伺って、優しさごっこを演技する。

先も書いたけど、優しい子に育てるのだといって傷つくことから子供を遠ざけたことで、人の痛みの分からない子に成長し、同時に自分がほんのわずかでも突付かれると傷ついたといって保護をもとめる。

それが相手を死に追いやるまでいじめる人間といじめられる人間を作り出しているわけで、本来なら小学校で卒業するはずのいじめを今は高校生になってやっているのが普通。

「おかしくはないか?」

それで自分の我侭が満たされず守ってくれなければ、“褒めて育てる・叱らない教育”とやらで怒りの処理が出来ない子たちはすぐに逆切れし、人を平然と物理的に傷つけるか、部屋の中に逃げ込む事になる。


まとめると、褒めて育てる・叱らない教育とやらと同じように存在する優しい子に育てる方法、いい子にする教育、頭の良い子に育てる。

こうした書物を読んで、人間としての自然な心を捻じ曲げ子供を育てた結果が、さまざまな問題を起こす人間の大本であるということ。

これは私が教育についてまがいなりにも現場から研究してきた結果云えることで、
非常に興味深いのが、非行や引きこもり不登校、不良などを立ち直らせるところは日本の至るところにあるけれど、こうした現実と向かい合っている彼らの言葉に共通しているのは、
余計な知識を仕込んで自分の思うとおりの人間を作ろうとするな、親が先回りして傷つくことから子供を遠ざける様なことをするな、常に自分の力で歩ませろ、愛情と過干渉を混同するな、必要なときは感情を込めてきちんと叱れ、という極めて当たり前の言葉たち。

しかしながら書店で並ぶ書物を紐解いてみるなら、こうした現場の声とは真反対の方向へ誘う甘い内容と言葉たちのオンパレード。

特に不登校や引きこもりの子達に対するサポート的な本はまったく逆効果な物ばかり。

私の知る中でもっとも愚かで馬鹿らしい代表例を一つあげて見ましょう。

よく聞く、「学校へ行きたがらない場合、子をぎゅっと抱きしめてあげましょう」という対応方法

「何の役にも立ちませんよ、こんな方法!」、現実をなめたらいかんです。

この場合、抱きしめることで癒されているのは子供ではなくて、”親が癒されて安心する為のものであるということ”、それは不安になる親心を自己愛で満足させ、それを子供のために“愛を見せてあげているのだ”という自分勝手な満足と陶酔をくれる、いうなれば母親の為に用意された言葉であるということ。

そうでなければ本は売れませんし、書いている人は有名になれませんから。

戦っているのは子供自身なのですが・・・

花粉も終わりですかね・・・ ウインド準備

2008年04月07日 | ウインドサーフィン 
昨日のこと、来週当たりからウインド発進!てなわけで、職場の倉庫の片隅に置かしてもらっていたウインドサーフィンの道具を家まで全部引き上げてきました。

半年も放っておくと砂埃が結構凄い、というか花粉もたくさん。
完全に春を感じさせる温かな日差しの中で、セイルやマストブームなんかを全部出して点検。

ぱんぱんと叩くと途端に鼻が詰ってきます。

「い、いかん!」なんて思ったりするも時遅し、くしゃみを数回して、そのまま作業続行。

そういえば、このところ目も鼻もすっかり楽になってきてるんだよね・・・

2008年04月07日 | Weblog
土曜日は、久しぶりに親のところへ行って来ました。
車で約2時間、さほど遠くもなくて、でも少しでも混めば3時間。

春先に行って来た札幌祭りの話しや姫路城、出雲大社と相変わらずじっとしていないわけですが、そう言えば自分が色々と話すことをニコニコと聞いてくれる事はあっても、親のこうした話しをゆっくりと聞いたことはどれくらい有っただろうか?

自分は何て親不孝な人間なんだろう・・・とこうした瞬間に思ったりします。

たまにしか来ないわけで、そんじゃ今日は息子の手作り料理をご馳走しようか、
というわけで、ミネストローネなんぞを作りました。

例のごとくあれをもっていけ、これをもっていけと頼みもしないのに色々と出してくる親。

ほんとうにありがたいと思います。




愛用のウインドサーフィンボード

2008年04月04日 | ウインドサーフィン 
久しぶりにボードを出しました。

僕の使っている3枚の中では一番使用範囲の広いものです。
尖がったノーズではない、最近流行の丸っこいシルエットの高性能ボードで、
前から写真とっているので、余計ずんぐりしているように見えます。

ジャイブがやりやすいので気に入ってますが、
以前使っていたボードに比べるとセイルのチューニングとジョイントポジションにもろ影響を受けるために気を使います。

ちなみに、一番初めにこのボードに乗った時には上れなくて(風上に上がっていくこと)、「なんだこりゃー?」と思ったりしたのですが、なんてことないチューニングの問題でした。

一度決まって走りだすとソニック(衝撃波)という名前に恥じない速さ、早いの何の。

僕の場合は夏のサーマルウインド(大気圧の差で生じる気流)で使用する事が多い為、セイルサイズが7.0くらいから8.5くらいまで幅広く使えるものが好み。

ボード自体は7.5から8.0くらいがジャストのようですが、僕の場合は無理やり乗って一枚で全風域をカバー(笑)。

5.0(あぶねー!)から9.3まで今年もこれでいくぜ! の予定。

おきな草 今日の写真

2008年04月04日 | Weblog
うつむいていたおきな草の花です、本日の昼休み撮影しました。
今朝紹介したおきな草、は数日前に撮影したものです。

このブログには一枚しか写真が載せられないために、多少こうした時間差が起きます、何枚も続けてアップしてもいいのですが・・・
他の花の写真もあるので、適時アップしていきます。