前回の「内向き・縮み志向の自公の『愛国心』」に引き続いて、4月16日(06年)日曜日NHKテレビ「日曜討論」での各党の「教育基本法」についての議論から。勿論、〝愛国心〟表現が焦点となっている。
共産産党市田書記局長「今の教育基本法の精神が実施されてこなかったところに問題があったのであって、一体教育基本法のどこに問題があるのか。愛国心という問題はそれぞれの国民の自主性に委ねるべきで、国家が法律でそういうことを定めるということは、一人一人の内心の自由をやっぱり侵すことにつながると思う。私たちは反対します」
そのとおり、〝愛す〟・〝愛さない〟は精神性に関わる利害行為。例え国が相手であっても、「愛さなければならない」とするのは精神の自由に対する侵害以外の何ものでもない。
公明党冬芝幹事長「日本の教育は知育・体育はそれなりに成果を上げたが、徳育という情操教育が不足して、自分さえよければいいという利己主義の風潮が蔓延した。学校では組合の力が強いという事実があって、教育を損ねてきた。そこで『伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する』心の徳育を通して、教育の荒廃を改善していくという主張です」といったふうな反論を試みていた。
市田書記局長は日教組のことを持ち出されたからなのか、有効な反論ができなかった。「教育主体に問題があると言うことなら、基本法の文言をいくら変えても、問題解決につながらないのではないか」といった反論を試みるべきだったろう。
教育主体に関係なく、「愛国心」をどういう形で持ち出そうと、教育の問題は解決しない。組合が強いといったことが教育荒廃の原因でもなければ、権利の主張偏重が「徳育」教育放置につながったわけでもないからだ。
教育とは名ばかりで、基礎学力の重視を看板にテストの成績が上がりさえすれば、基礎学力がついたとする形式的学力観に支配され、そのような学力で高校・大学の入学試験に合格することに特化した、言ってみれば学力ロボット人間の育成が日本の教育となっていて、そういった教育を親もそれでよしとし、社会もそれでよしとし、政治家もそれでよしとした。その末の学歴主義・学歴社会だろう。教師も生徒がシャカリキに暗記してくれさえしたら教科書を解説するだけで済んで楽だから、便乗する。そのような学校教育からテスト教育に必要な成分のみを抽出し、最適化した姿が学習塾、あるいは進学塾なる存在とそれゆえの繁盛振りで、日本の教育の姿を最も先鋭的に象徴している。
さらに象徴的なことは、最近では「小・中学校で、授業や補修、進路指導などを予備校や進学塾に任せる『外注化』が首都圏を中心に広がっている」(「朝日」06、1.11.朝刊)という教育風景だろう。教育の一切合財をテスト合格に集約した学力の獲得に収斂させようという動きの加速化であることは間違いない。そこでは徳育は必要摂取栄養素とはならない。元々必要摂取栄養素ではなかったところへ持ってきて、ゆとり教育がテスト学力でしかない学力の低下を招いたとの批判の反動から生じた学力一辺倒への流れを受けて、徳育はより完璧に有名無実化したに過ぎない。世の中がそう仕向けたのである。
従来の年功序列と終身雇用から能力主義・成果主義への移行に煽られた椅子取り競争の激化によるなお一層のブランド志向がテスト学力の占める重要性を増したといった側面もあるのではないだろか。、
ゆえに「外注化」の流れは奇異なことではない。教育の放棄でも何でもない。元々日本の教育はテスト教育を伝統・文化としてきたから、政治が構造改革と称して市場化を推し進めるのと同じく、学校が従来のテスト教育を、それ以外の余分なものをさらにそぎ落としてより集約的・集中的に推進しようとしただけのことだろう。テストにのみ有効な教育で以て、テスト用の知識だけ人間を育てていると言うことである。周囲の望みどおりに教師はよくやっているではないか。ときにはワイセツ教師が出現するが。あるいは盗撮・万引き。しかし誰も非難できない。政治家も似たり寄ったりだから。現行の教育基本法の「前文」に謳った理念はテスト教育推進の前にあっては力を失い、最初から最後まで見せ掛けの看板・見せ掛けのスローガンと化してしまっている。
スポーツの才能に恵まれず、テスト教育にもついていけないことから学校から疎外された生徒が、義務教育であることから学校で居場所を見つけざるを得ないパラドックスの翻弄を受けて、戦後の権利意識も手伝って自分を押し出す手段が教育荒廃となって現れている部分もあるのではないだろうか。
学力とはテストの解答に限定した知識能力ではない。教えられて知ったこと、その知識に自分の考えを加えることで応用・発展させていく認識能力を備えて、初めて学力と言える。
知識の応用と発展へと向かう考える力の獲得は、教師の授業を受けてその内容をどれほど覚えたか、それをテストの点数で検証するといった方法で果たせることではなく、教師対生徒、あるいは生徒対生徒が知識に関わる疑問や意見の言葉を交わし、あるいは言葉を闘わせて、相互の考えを高め合うことを繰返すことによって初めて実現する。
そういった言葉の交わし合い・言葉の闘わせ合いによる考える教育の不在が徳育(情操)教育を必須栄養素としなかったに過ぎない。その結果性としてある典型が政治家・官僚の今のザマとしてある自己中心・利己主義であろう。
公明党の冬芝幹事長が単細胞にも言う「自分さえよければいいという利己主義の風潮」の「蔓延」は日本人が協同してつくった日本社会全体の「風潮」であって、当然スタート地点は家庭であり、学校であるというに過ぎない。各社会の段階を経て、利己主義は確固とした姿を取っていき、不正利益取得とか利益供与、贈収賄、談合、カラ出張、カラ手当、天下り利益、水増し経費、粉飾決算、脱税とかの方法を取るに至る。冬芝幹事長にしても、与党を構成する政党の力ある幹事長として、その協同作業に大きな力で与っていたはずである。
生徒の自分たちのあるべき姿の模索は教師対生徒、生徒対生徒が言葉を交わし合い・言葉の闘わせ合いの過程で自ら考え、自ら答を見つけ出していくもので、外から与えられて、与えられたなりの内容に添って、それを自らのあるべき姿とする自己画一化とその全体化は学校教育に於けるテスト知識の授受とその全体化であるテスト教育化と照応し合うこととなり、双方とも考える段階を排除する仕組みを当然とする。
自公連立政権は新しくつくろうとしている教育基本法で、「愛国心」という、さも立派そうに見える公徳心を装った道具立てを用いてまったく同じことをしようとしている。法律に明記することで自動的に従わせようとする図式は考えるプロセスを与えないもので、自分たちが望む姿に統一しようとする強制意志の働きを持っている。暗黙の全体主義がそこにはある。