「小泉壊革 5年の軌跡(上) 派閥解体冷徹貫く」を題名とした記事が朝日新聞((06年4月18日)朝刊に記載されている。主な内容を拾い読みすると、
「小泉政治の時代は、派閥溶解の5年だった。首相就任時に25人前後だった無派閥議員は70人を越え、8つあった派閥の半分で領袖が代った」
「01年4月23日、新潟県長岡市のJR長丘駅前。田中真紀子衆院議員隣に立った小泉純一郎氏は『私は初めて派閥の論理が通用しない自民党総裁になる。派閥の時代は終わった。政治は動く』と声を張り上げた。総裁選は翌日に迫っていた」
「首相は昨年9月の総選挙で、郵政民営化法案への賛否を『踏み絵』にした。公認権を武器に選挙戦は党主導で進み、派閥の『選挙互助会』としての機能は薄れた。もとより中選挙区制度と異なり、小選挙区制度では自民党内の派閥同士が競うことはない。派閥の支援より、『党首力』が勝敗を大きく左右する。
総選挙後の昨年11月、首相は太田誠一・党改革実行部長に『派閥の役割を党の機関が肩代わりするよう取組んでほしい』と指示している」
(派閥の)「惰性が断ち切られたのは、人事や選挙での『首相(総裁)主導』が徹底したからだ。自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた。民主党の菅直人代表代行は『自民党内政界再編成をやった』と表現する」
果たして記事に書いてあるように小泉首相は派閥を解体し、派閥の論理を通用しなくしたのだろうか。「自民党内に派閥という『政党』がひしめく姿は消えた」と確実に言えることなのだろうか。
派閥への傾倒は一人の力を数の力に転換させることで、より大きな力を生み出す自己の集団化を意味する。当然の反対給付として、集団の支配を代償としなければならない。自律的行動は許されず、常に派閥の束縛を受け、集団の一人として行動しなければならない。自己を集団(派閥)に合わせることによって、自己を成り立たせ可能となる。
そういった集団への依存は新人議員のときは有効であっても、新人ではなくても、自ら見るべき政策を創造し得ない議員には力となり得ても、独自の政治センスを持つに至りながら、派閥の中でそれを有効に生かしきれない議員にとっては派閥という集団は逆に自己を束縛するだけの存在と化すに違いない。だが、派閥の力で当選を続けることができた恩義と、独立した場合の数の力の喪失による自己弱体化が派閥へと縛り付ける。
同じ記事が「安倍晋三、麻生太郎、福田康夫、谷垣貞一各氏。ポスト小泉候補のうち派閥領袖は谷垣氏だけ。津島、古賀・丹羽派の複数の若手は、安倍氏を囲む会合を重ねる。その一人は『派閥の意向がどうであっても、安倍氏支持を推す』と話す」と、派閥の束縛を受けない姿を報じているが、自己の所属する派閥の利害では動いていなくても、そこから離脱して、どの派閥にも属さない行動となっていない以上、「安倍氏支持」に限定した派閥外行動でしかない。それを可能としているのは、安倍晋三が次期総理・総裁の最有力候補に挙がっていて、バックとしている小泉支持という力によってなおのことプラスされる近い将来高い確率で手に入れると確実視できる総理・総裁の〝力〟(=権力)に自らの力を寄り添わせ、その恩恵に与ることで取得できる、派閥への集団化に代る自己の勢力化が派閥の制裁から自己を保護してくれる力となるからだろう。寄り添った大樹が強力な〝陰〟を差し出してくれると言うわけである。派閥側も除名したら、数を失う自己利害から、除名に踏み切れないという事情もあるに違いないし、安倍政権になった場合の人質とし、そこから何らかの利益を得ることができるという計算もあるに違いない。
安倍政権成立による反対給付は、若手なら副大臣とか各委員会の委員といったポストの配分に与ることだろう。当面の論功行賞はなくても、いつかは約束されるだろうし、総理・総裁の勢力に加わることによって、少なくとも活動の場は広がる。総裁候補と目されているものの、その目がない谷垣氏に他派閥からその派閥の意向を無視した個人的な支持の具体的な動きが果たしてあるだろうか。目がない以上、自己を保護してくれる〝陰〟、あるいは何らかのポストが期待できる大樹とは当面はならないからだろう。
確かに小泉首相は派閥の力を弱めはしたものの、新聞が書いているように「派閥解体」を果たしたわけではなく、自民党総裁になる前に自ら宣言したように「派閥の時代は終わった」わけではない。閣僚人事にしても、派閥の論理を通用させなくした。しかし次期総理・総裁にその確率が高い安倍氏を支持する他派閥からの若手の動きと同じように、支持率の高さをも力とした「首相(総裁)主導」への派閥を超えた集団化・勢力化の動きが既に従来の派閥の論理を無力化していたと言えないだろうか。いわば多くの議員の間で小泉首相への〝寄らば大樹の陰〟の動きが生じた結果、それが一種の派閥集団(=擬似派閥)となって、その勢力化・集団化が一方で「首相(総裁)主導」へと力を与え、一方で派閥の従来的な論理を弱体化させたということではないだろうか。
郵政民営化問題など様々な要因で確かに「首相就任時に25人前後だった無派閥議員は70人を越え、8つあった派閥の半分で領袖が代った」が、無派閥議員の多くを占める昨年の総選挙圧勝で初当選したいわゆる小泉チルドレンその他が武部幹事長主導の新人教育に参加していること自体が派閥への集団化に代る「首相(総裁)主導」勢力への自己の集団化を示すものと言ってもいいのではないだろうか。党主導の新人教育を通して、新人無派閥議員を擬似派閥化していると言える。
いわば「首相(総裁)主導」を大きな勢力・大きな集団としたことを通して、それを一種の擬似派閥に形成したからこそ、それを主体的な基盤とした派閥の論理を駆使することで、自らも所属し、所属していることからも可能とした自民党最大派閥である森派をも無視して、「人事や選挙での『首相(総裁)主導』が徹底」できたということだろうか。
「首相(総裁)主導」が擬似派閥であることの証明は同じ記事の次の箇所が示している。
「首相は今、『小泉チルドレン』との会合などで、『解体後』の派閥像についてこう語る。
『派閥は、首相を作るために集うものでないといけない。総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ』
総裁選で候補を支援するのは、派閥本来の機能だ。だが、人事や選挙などでの機能を、総裁をトップとする党執行部に譲り渡してきた派閥に、それだけの力はあるのか」
「派閥の時代は終わった」と自ら宣言した小泉首相自身が「派閥は、首相を作るために集うものでないといけない」と新しい派閥像とその役目を語っている。「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ」と従来からの役目は否定している。
しかし、「不純」説は詭弁だろう。派閥を勢力とする集団が存在する以上、勢力の伸張を属性の一つとしているのだから、「総裁候補がいな」くても、「人事や選挙のために」いくら「動」いてもいいわけで、その効果次第で「首相を作るため」の派閥へと将来的に変貌を遂げないとも限らない。
そういった派閥の動きに対して、相手の政治的才能を考えずに派閥均衡の振り分け人事を発したり、適材適所を考えずに、当選回数や派閥が出してきた候補にさほど重要ではない閣僚ポストを宛がうといったことをする任命権者側の派閥勢力に囚われた政治手法こそを問題としなければならないのではないだろうか。問題とはせずに、「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動く」派閥を問題とした。
逆説するなら、言っていることが新しい派閥像として自民党内で市民権を獲得できる種類のものであったとしても、総裁候補を抱えているからこそ言える自己派閥活動の正当化であって(総裁候補を抱えていない派閥が、「総裁候補がいないのに人事や選挙のために動くのは不純だ」などと決して言えない)、その自己利害性が従来からの派閥力学からのものでないことは確かだが、派閥単位の考え、派閥単位の総裁選考を意図していることに変わりはなく、それゆえに例え新しいものであっても、派閥論理からの、その範囲内の主張に過ぎないことを証明している。
自らも所属している自民党最大派閥森派の森会長が時期が早すぎると反対している意向を無視して安部晋三を小泉首相自身がポスト小泉と認定したこと自体は、小泉首相の派閥論理が森派を基準としたものではなく、「首相(総裁)主導」を基準とした発想ではあっても、「首相(総裁)主導」勢力が擬似派閥として、所属議員のうち小泉支持議員と他派閥の支持議員を足して森派を上回る勢力となっていることから、ある部分可能としている事態でもあるだろう。
総裁選挙に関しては投票権を持つ党員への締め付けが派閥議員の数を人気が上回って影響するとは必ずしも言えないし、総理・総裁になってからの実際の政治活動は、やはり派閥所属議員の数がより多く力となるだろうから。
政治家一人一人が自らの考えに従って行動し、例え同じ考えの他の政治家と連携して協同することはあっても、その人間の支配を受けない。あくまでも自己を自律的な立場に置く。いわば自己自身の支配者は自己とすることによって、常に自律的でいられる。そういった姿が本来の姿であって、政治家一人一人がそういう姿形を取ったとき初めて派閥の解体と言えるのではないだろうか。
だが、決してそういう姿は取らない。日本人自らが自らの行動様式としている集団主義・権威主義から免れることはできないだろうから。
森派を将来受け継ぐのは小泉首相だろう。総理・総裁でなくなった彼が自らの影響力を保持するためには、自派閥から総理・総裁を出し続けるか、自派閥の影響力で他派閥の議員を総理・総裁に据えるか、かつての田中派以降の平成研究会がしてきたことと同じことをすることによって実現できる。
そのことは「首相(総裁)主導」の擬似派閥から従来の派閥への先祖返りを意味するが、もし次期総理・総裁以降が小泉首相と同様の「首相(総裁)主導」の擬似派閥を基盤として人事や政策を自ら握ろうとした場合は、両者間に緊張と拮抗をもたらすことになる。