〝教育基本法〟に見るハコモノ体質

2006-04-22 06:22:14 | Weblog

 読売新聞の2006年4月13日15時39分のインターネット記事の「与党の前文案」は次のようになっていた。

 「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類福祉の向上に貢献することを願うものである。我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」

 同じ内容を部分的に扱った『朝日』の06年4月13日朝刊記事は、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』とすることで合意した」となっていて、問題となっている〝愛国心〟に関わる「我が国と郷土を愛する」との文言が読売には見えない。

 どういうことなのか分からないが、言葉の使いようでどう韜晦し、どう暗示しようと、気持の上では〝国を愛する心〟を一人残らずの国民に持たせたいと願っていることだけは確かであろう。
〝愛国心〟を代償する精神に「公共の精神」を持ち出したのだろうか。何を以て〝愛国心〟とするのか。何を以て「公共の精神」とするのか。所詮、スローガンもどきのことしか言えないだろうが。

 ついでに現行の「教育基本法」の「前文」を並べてみる。「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貞献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

 現行・改正案共に「前文」の理念は素晴しいが、現行の理念を現実の人間は果たして体現してきたのだろうか。体現できなかったから、改正するのだとしても、体現できなかった理念をどういじろうと、体現できないことに変りはないのではないだろうか。

 改正案は「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家」としているが、事実日本は「民主的で文化的な国家」を「築」き得ていたのだろうか。今の日本が「民主的で文化的な国家」だと言っているのである。素晴しい映画を作り、素晴しい音楽を奏でようと、あるいは芸術的な建築物を如何にたくさん造ろうと、各種技術に優れていて、高度な機能を備えた携帯電話を誰もが当たり前に使っていようと、人間の一般的な社会上の行為・生活上の行為が「民主的で文化的」でなければ、意味を成さない。

 前提が事実に反していたなら、目標とする「発展」は望みようがない。

 また、「個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期する」としているが、社会の大人が既にそういった「国民」になっていなければ、子供に求める資格はなく、当然子供への指針とはならない。大人が体現してもいない絵空事を求めることになるからだ。

 もし新旧共に「前文」の理念が絵空事で終わるとしたら、言葉の遊びでしかないことになる。さも立派らしいことを言うだけの誤魔化しを働いただけで終わる。

 下、上を見習う。子供は親の考え方・生き方の影響を否応もなしに受ける。その影響とは肯定的な反応、もしくは否定的な反応として受け止められるが、どちらか一方に偏るとは限らず、部分部分で肯定・否定が分かれる場合もある。勿論、子供の対人関係は親との関係がすべてではなく、教師とも持つし、友達とも持つ。大人になってから自分の生き方に大きく影響を与える人間との出会いもあるだろう。親がすべてではない。世の大人がテレビ電波の形でいくらでも家庭に入ってくる。
同じ年齢の友人から、その考え方に強い影響を受けるといったケースもあるだろうが、生き方の基本は下が上を見習うのであって、上が下を見習うのではない。

 いわば子供たちは親や教師を含めた社会の大人の考え方・生き方を直接的・間接的に見習い、それを教育として自らの考え方・生き方を形作っていく。となると、親や教師を含めた社会の大人は自らの考え方・生き方そのものを子供たちの考え方・生き方の教材とすべく、常に意識して行動していかなけれバならない。

 〝愛国心〟などと難しいことを考えるまでもないことではないか。それでも〝愛国心〟に拘りたいなら、法律に規定するのではなく、〝上〟に位置する社会の大人が〝愛国心〟を具体的に示すことによって、自然と〝下〟に位置する子供たちに見習わせる教育方法を採るべきだろう。〝愛国心〟の具体的体現とは、靖国神社に戦没者を参拝するといったことではなく、そんなことは形式的にも行えることだから、政治家・官僚で言うなら、利権行為・既得権行為に絶対走らない、一部の利益組織と絶対癒着しない、誠心誠意自らに課せられた役目に励み、公金を私腹したり、流用したりを絶対しない、族益だ省益だと利己主義行為を絶対しない、権力を絶対悪用しない、一般国民に対して自分を何様だといった上位権威に絶対置かない、常に公明正大である――そういったことを厳密に守って、〝愛国心〟の教材とすべきではないだろうか。

 社会の大人たちが体現できない理念を〝教育基本法〟にいくらちりばめ、それを同じく体現していない教師に子供立ちに向けていくら教えようとも、伝わるはずはない。現行の教育基本法の「前文」の理念が理念のための理念で終わったのはそのためだろう。改正しても、今の日本の大人たちの姿からしたら、同じ轍を踏むだけである。まず大人たちが理念どおりの人間に成長することを前提としなければならないのではないだろうか。

 実現不可能な理念のちりばめは、公共施設を如何に素晴しいテーマを与え、如何に莫大なカネをかけて最先端の建設技術で造り上げようとも、利用者に精神的な歓びや満足を還元できないハコモノと同じで、維持費も賄えない膨らむ一方の赤字という役にも立たない遺産は、教育荒廃に相当する情けない成果としてあるものだろう。

 ハコモノづくりの名人である日本人が法律や制度に於いても外形は立派に仕上げるハコモノと同じく立派な条文を備えることはできても、人間形成や生活形成に役立つことなく終わったとしても、無理のない話なのかもしれない。

コメント (1)
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