「吾輩は猫である」と言ったのは夏目漱石だが、人間について夏目漱石風に言うなら、猫の目から通した人間がみな俗物に見えたのだから、「人間は俗物である」となるだろう。どこから見ても、上から見ようが下から見ようが、あるいは斜めから見ようが横から見ようが、俗物以外の何者でもなく見える。
せいぜい学歴とか社会的地位とかで胸を張って、さも大層な生きものであるかのように装うが、それらを剥ぐと、俗物の顔を覗かせてしまう。
「人格と才能は違う」と言ったのはフランスの哲学者だとかだそうだが、人間が俗物にできているからこそ、人格と才能の食い違いが発生する。
人間は利害の生きものでもある。生きるということは、利害との闘いだからだ。利益となることを優先させてこそ、社会に自分をより生かすことができる。塾にまで通ってテストの点数を上げ、大学までの学歴を獲得しようとあくせくするのは、そうすることが自己の利害と一致するからだろう。損をすることばかりしていたなら、自分から社会的に負け犬を選択するようなものである。
しかし、学歴獲得が自己利害に一致するからと言って、自分の成績に一喜一憂したり、他人の成績を気にしたりすることは自分を一生懸命に余裕のない人間に仕立てることではないだろうか。
人間が利害の生きものであることが、人間を俗物に宿命づけている。
才能に関して言えば、より優秀な発揮が自分に関しても、また他の多くの人間にとっても、利害の一致を見るが、人格の場合は、道徳的に優れた発揮が自分の利害や他の人間の利害に常に一致するとは限らない。
簡単な例で言えば、一つの才能が見い出した技術が世の中の生活の向上に役立った場合、技術を生み出した人間の名声と経済的利益が本人の利益と一致するだけでなく、生活が便利になったことで、世間一般の人間の利益にも寄与する。ゆえに才能は目指す方向が常に一定していて、ブレることはない。中には才能を悪用して犯罪を犯す人間もいるが、世の中の人間には役立たなくても、何らかの利害状況が生じて、そうすることが本人の利害と一致する犯罪だったか、悪用自体がその人間にとっての才能発揮に当り、悪用でしか自己実現を図ることができないという自己利害からではないか。
逆に、ウソをつくことが自らの利益と一致する場合は、それが他人を騙し、不利益を与えることであっても、積極的に進んでウソをつく。ウソをつかないことが自分の不利益となると分かっていて、それが無視できない不利益であるなら、ウソをつかないでいられる人間がどれ程いるだろうか。
と言うことは、ウソをつかずに事実を話すのも、自己の利害に関係ないからか、あるいは一致するからか、そのどちらかであろう。自分の利害に関係してきて、一致しない利害だったなら、ウソをつく方を選択するだろう。
ゆえに人格は常に一定しているわけではなく、ブレることになる。
才能が生み出す技術は訓練と積み重ねによって発展させることができる。積み重ねとは、他人がそれまで達成していた技術に自己の技術を積み重ねていく発展形式のことを言う。そのような形式で開始し、訓練となる試行錯誤と失敗の繰返しというさらなる積み重ねで、新たな技術に到達する。そしてその方向への歩みのみが自己と多くの他者の利害と一致する。
才能に恵まれたスポーツ選手にしても、他者の技術の見よう見まねや他人の教えを受けて、そこへ自分の技術を積み重ねていくことから始まって、それ相応の練習(=訓練)を重ねるさらなる積み重ねでより高い技術を取得し、活躍するようになる。それと同じことであろう。
世界的に優れていると言われている日本の技術は殆どこの形式の技術である。かつて世界からモノマネでしかないと言われていたように、モノマネから出発して、改良を重ねて高いレベルに達した技術であろう。
そのような発展型だから、韓国・中国にしても、日本が到達した技術を出発点として、その上に積み重ねていくモノマネ形式の技術の獲得を駆使して、日本の技術に迫り、追い越すことも可能となっている。かつて日本が欧米に対して行ったことの繰返しであろう。
しかし、人格はブレるがゆえに積み重ねが効かない。自分の置かれた状況に応じて、自己の利害が他人との関わりで刻々と変化するからだ。自分の利害と一致すれば、正直であろうとするし、一致しなければ、ウソをつくこともし、人を騙しもする。
だから、昨日正直であった人間が今日も正直であるとは限らない。昨日は正直だったが、今日はウソをつくと言ったことをする。社会的に高い地位を得ている人間の、備えていなければならない人格と社会的責任に反する裏切り・豹変・不作為にしても、利害優先が人格の積み重ねを阻害していることの結果としてある姿であろう。
日本人の技術が優秀であるのに反して、人格に反する行為を犯す政治家や官僚がゴマンといるのは、このためである。族益行為、省益行為、癒着、セクハラ、贈収賄、政治資金法違反、虚偽報告、虚偽記載、脱税、談合、天下り、経費流用、カラ出張、カラ手当、各種水増し、職務不履行、海外視察と称した観光旅行等々、政治家・官僚の不正行為・乞食行為は跡を絶たない。絶たないばかりか、いくらでも誤魔化しをする。
勿論、政治家・官僚だけではない。大企業を含めた会社人間の産地偽装、表示偽装、脱税、法の悪用、裏取引、粉飾決算、インサイダー取引、総会屋や右翼への不正利益供与、横領、各種法律違反、マスコミのやらせ、虚偽報道、人権を無視したハイエナ取材、教師の児童買春、盗撮、万引き、警察官の盗み、職務怠慢、例を挙げたらキリがない。優れた才能や高い技術を持った研究者や技術者でさえも、研究の捏造や論文盗作といった不正を働く。
かくして、「才能と人格は違う」というジキルとハイド現象が現出することとなる。
当然、日本の技術は優秀だと誇ってばかりいるわけにはいかなくなる。さらに言えば、愛国心の涵養で片付きもしない。愛国心を掲げる人間の中にも、人格に反する行為をする人間がゴマンといるだろうからだ。愛国心を掲げると、さも人格的に欠陥のない人間、欠陥のない政治家に見えることを利用して、自分をそのような人間に見せようとする利害行為から愛国心を掲げる人間もいるだろう。
戦前の神風特攻隊員の自分の命と引き換えの体当たり攻撃を純粋な愛国心から出た無償の行為だと、愛国心発揚の格好の材料とするが、合理的精神(客観的認識能力)の欠如がいともたやすく可能とした、天皇のため・お国のための盲目的同調行為に過ぎないか、表面上はお国のために帝国軍人の名を辱めずと勇ましくいきり立ってはいたものの、内心は命令されて仕方なく従った条件つきの従属行為に過ぎなかったのではないか。
決定的な形勢逆転に至る戦略的な面攻撃を策した作戦ではなく、その場の形勢のみを考えた単発的戦術の範囲を出ない点攻撃でしかなかったにも関わらず、形勢逆転にはクソの役にも立たないことが計算できなかったのは、日米の物量と戦略・戦術の桁違いの差を正しく認識する客観的認識能力が欠如していたからであろう。大体が合理的精神を欠いた、精神主義だけの愛国心などは二律背反以外の何ものでもない。
敗色濃くなった本土で、飛来する敵機を撃ち落とすお国のための竹槍訓練は、お国のために何かの役に立ったのだろうか。食うや食わずの食糧難の時代に、余分に腹を減らし、体力消耗を無駄に招いたということに関しては十分に役立ちはしただろう。特攻隊の体当たり攻撃にしても、所詮竹槍訓練に毛の生えた程度の作戦に過ぎなかったのではないか。
人間が利害の生き物である以上、利害から離れた愛国心行為といったものは存在しない。
愛国心行為にしても、利害行為でしかないことをしっかりと見極めなければならない。
それもこれも人間が利害の生きものであることが、人間を俗物に宿命づけているからだ。