「約10万人が一夜のうちに死亡したとされる1945年3月の東京大空襲の遺族や被災者がつくる『東京大空襲犠牲者遺族会』(石鍋健会長)が今年8月にも、国を相手取って損害賠償と公式謝罪を求めて集団訴訟を起こす」という「朝日」の記事(06.3.5.朝刊)がある。「空襲の遺族、被災者ら民間戦災者は、戦傷病者戦没者遺族援護法が適用される旧軍人・軍属やその遺族と異なって、補償が行われていない」「差別的取扱を放置した国の立法不作為の違法性などを問う考えだ」という。
但し、「空襲の被災者が国を訴えた例では、名古屋空襲の戦傷病者2人が損害賠償を求めた訴訟があるが、87年、最高裁が『戦争犠牲ないし戦争損害は国の存亡に関わる非常事態のもとでは、国民の等しく受忍しなければならなかったところ』と指摘し、退けている」というから、「東京大空襲犠牲者遺族会」は「この最高裁判決の『戦争受忍論』の問題点や克服の方法を検討するため、今後、弁護士や法学者と共に、法理論や外国の事例を研究する」ということらしいが、「天皇陛下のため・お国のため」と国民自らが侵略戦争を積極的且つ高邁な使命感で後押しした、いわば共犯関係にあった、その因果性としての「戦争犠牲」・「戦争被害」なのだから、補償を求める資格はないのではないだろうか。
政治家・軍部に踊らされて、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と、日本は神国、天皇は神と妄信し、自惚れ、神だ、神国だ、優越民族だは自分たちが小さい人間であることを隠して大きく見せる民族的誇大妄想に過ぎないことに気づかずに、言ってみれば小人族がガリバーに戦争を挑んだ当然の結末でもあったのだから、その悲惨な運命は甘受すべきだろう。
それでも最高裁判決の『戦争受忍論』を克服するとするなら、「民間戦災者」の無補償を問題とするのではなく、逆に帝国軍人・軍属に対する戦後補償そのものを不当供与とする理論を打ち立てるべきではないだろうか。帝国軍人・軍属はカネを貰って、職業として戦争に参加していた点を突く方法である。
徴兵された人間にしても、志願した人間にしても、無償ではなく、俸給を受けているし、お国のためと、少なくとも表面的には積極的な協力姿勢で参加した。報酬としてのカネを受取り、なおかつ負傷者は傷痍軍人手当てを受け、戦死者の遺族は年金を受取っている。「戦争受忍論」を言うのだったら、カネを貰って戦争をした人間こそが、その被害に対して「等しく受忍」すべきで、「民間戦災者」が国からカネも貰わない無報酬で銃後の守りを強制され、戦争による生活物資の不足を我慢させられ、なおかつ爆撃等で犠牲者を出し、何ら補償も受けない。「等しく」ないではないか。「等しく」するために、これまで支払ってきた傷痍軍人手当てや遺族年金を没収すべきである。没収できなければ「等しく」するために「民間戦災者」にも補償して、国民すべてを「等しく」すべきであると。
職業軍人及び徴兵・志願の有給兵士が戦った戦争が一般国民に見るべき被害を与えない戦争で、国に何らかの利益をもたらし、その利益が何らかの形で一般国民にも還元された性質のもので、そのことに反して職業軍人及び徴兵・志願の有給兵士のみに限られた「戦争犠牲」・「戦争被害」であったなら、平等を期する意味から軍人のみの補償は止むを得ないとしても、一般国民にまで甚大にして多大な「戦争犠牲」・「戦争被害」を波及させた主犯としての責任を無条件に除外しての「受忍」の免除(戦傷病者戦没者遺族援護法に基づく補償)は利益平等付与の観点から言って、著しく不公平だと言えないだろうか。