自民党古賀誠の「心の中で分祀」

2006-04-27 06:51:07 | Weblog

 06年4月21日の『朝日』夕刊記事から抜粋。

 『超党派議員96人靖国神社を参拝』

 「21日朝、春季例大祭中の同神社を参拝した。日本遺族会会長でもある古賀誠元自民党幹事長は参拝後の記者会見で、中韓両国のA級戦犯合祀に対する批判に対して『私は常にお参りするときは心の中で分祀している。お参りする一人ひとりの心の中の問題だ』と述べ、政治問題化すべきではないとの考えを示した」

 参拝は自民議員以外に民主、国民新党などの議員が参加、現職閣僚はいなかったが6人の政務官が参拝したという。

 古賀誠はA級戦犯分祀には「政治が宗教に介入すべきではない」との反対論者であり、同時に「靖国神社が唯一の慰霊施設であり、新たな慰霊施設の建設には反対」の国立追悼施設建設反対論者でもある。平成14年には当時の福田康夫内閣官房長官の要請で設立された「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の議論に対して財団法人日本遺族会会長古賀誠の名前で、「日本遺族会は、『国立戦没者追悼施設新設構想』を断じて容認できない。その撤回を要請する」と福田官房長官宛てに『要請書』を提出している。

 いわばA級戦犯の墓は靖国神社に合祀させておけと一方では言い、その一方で「心の中で分祀」すれば十分と言っているのである。言っていることに矛盾があるかどうかが問題となるが、何よりも「心の中で分祀」していると言っていることがウソかホントかを問題としなければならない。

 「心の中で分祀」が単なるレトリックであるなら、その巧妙さ・狡猾さは参拝を「心の問題」とした小泉首相の比ではない。首相は道路公団民営化と郵政民営化問題では対立関係にあったが、仲直りの握手をして、古賀誠流の詐術を見習うべきだろう。

 人間のあらゆる行為が心の思いが外に向かって形を取ったものとして現される。だからと言って、外に現れた形から、心のすべてを正確に窺い知ることができるというものではない。外に現すとき、自己の利害に都合のいい形に装う演技や虚偽を介在させるからだ。

 問題は古賀誠の「心の中で分祀」がそのような演技もしくは虚偽を介在させているのかどうかだが、介在させた言動と言うことなら、窺い知ることの難しさを逆手に取った人を食ったマヤカシそのものである。

 心の中を窺い知るには、外に形となって表れた日常行為の数々から、そこに一貫して流れている心がけを判断材料として、それに対する心証から予測するしかない。譬えるなら、物的証拠のない容疑者に対して状況証拠を積み上げる作業に似ている。

 まず最初に古賀誠は自民党道路族の系譜につながり、道路族の巣窟である「道路調査会」の会長を05年11月に石原伸晃前国土交通相が就任するまで4年ほど務めて、「道路族のドン」なる栄誉ある称号を得るに至っている。この一つを以てしても、古賀誠なる政治家が自らのホームページで言っている「誠を貫けば 天まで通じる 至誠通天 政治に夢 誠 愛」なる言葉に恥じないウソ偽りのない人物であることを窺い知ることができる。

 そもそも日本道路公団は1956(昭和31)年に日本道路公団法に基づいて有料道路・有料駐車場などの建設・管理のために全額政府出資で設立された特殊法人だということだが、その経営方針は天下りの温床・主導で談合を信条とし、道路特定財源を打ち出の小槌として法外なまでの談合高値発注と数多くの不採算路線の各地元バラ撒き建設で40兆円という赤字を垂れ流してきた。そのような悪魔的な日本道路公団の民営化政策に同じ党の国会議員として反対し、道路特定財源の見直しにも反対している。

 反対理由は、旧建設省・現国土交通省の道路行政と建設・管理主体の日本道路公団とが一体となった道路政策から利益を受けていた主たるた受益者の一人であったからに他ならないだろう。道路族といわれる所以である。何ら利益を受けていなければ、ズサン談合経営組織の民営化に反対するわけがない。

 談合経営を受益者として支え、その受益で既得権益を築き上げては利益誘導政治を展開して政治家としての力を蓄えていき、実力者へとのし上がった。実力者として手に入れたのが4年間の〝道路調査会会長〟という名誉ある名前と地位が保証するより確固とした既得権益であり、それを土台とした一段上の実力者、ドンという地位であったはずである。

 古賀誠は自らの講演で次のように述べている。不採算道路や過剰規模道路の建設中止が民営化目標であるのに対して、「需要動向や金利などのリスクも考えておく必要がある」という条件つきながら、「高速道路の整備については残事業が2300キロメートルある。この残事業は、2割のコストダウンと有料料金の活用によって16兆円が確保できれば、建設はできる」

 談合経営に便乗・受益していた今までのコスト無視の姿勢をどこ吹く風として、「2割のコストダウン」と民営化必至の段階に至って初めてコスト意識を持ち出すとは一貫性を欠くご都合主義であるばかりか、「残事業」すべての建設は民営化目標の骨抜きにつながる以上、道路族としての既得権益擁護の使命を最優先させる自己利益からの主張であろう。

 昨年の郵政民営化法案の最初の採決では、反対の姿勢を首尾一貫させて正々堂々と反対票を投じた亀井静香や綿貫といった守旧派や、あるいは子飼い議員である野田聖子の〝反対は正義〟の態度と一線を画して、古賀誠は反対派ながら、風当たりを巧妙に嗅ぎ分けたのか、本会議を〝正々堂々〟と欠席して、子飼い議員まで裏切る棄権を選択している。

 この経緯を説明すると、「心の中」の基本は反対だが、反対票を投じるよりも万が一の衝撃を柔らくすることができるとの計算を介在させて、ワンクッション置いた最終形態が欠席であって、「心の中」と実際の行動がものの見事に一致しない顕著な例であろう。反対派議員から裏切り者呼ばわりされたのも頷ける。このことは古賀議員の行動が「心の中」と実際の姿とで必ずしも一致しているわけではないことの証明となり得る。

 ご存知のように郵政民営化法案は参議院で否決され、小泉首相は衆院の解散総選挙に打って出て、自民党反対議員は党の公認を得られなかったばかりか、いわゆる党公認の刺客候補をぶつけられた上、選挙後、落選・当選に関係なしに離党勧告や党除名処分を受けている。

 だが古賀誠は、武部幹事長が小泉首相の方針として欠席・棄権組に対しては「党公認」との引き替えに「郵政民営化と小泉構造改革に賛成する」旨の文書を提出するよう迫られると、反対から棄権に譲歩した変節をさらに変節させて、賛成の文書を党本部に提出し、反対を貫いた同志に対してはさらなる裏切りを、自らに関しては最大級の自己保身を発揮して〝正々堂々〟と自民党に居残って党公認をまんまとせしめた上、ホテルでの演説で、「総理総裁が情熱を傾けている以上、私たちも協力する。次の国会でできるだけ早く再挑戦し、実現していくのは最大の責務だ」と、賛成の文書を出しただけでは心にもない態度と取られると不安に駆られたのか、公にも保証を与える一層の自己保身の上塗りを図っている。

 「名は体を表す」という言葉があるが、「心の中」と外の姿が一致して、初めて「名は体を表」しているとすることができる。果たして古賀誠の〝誠〟は「名は体を表」している類に入れることができるのだろうか。

 小泉首相の郵政民営化に向けた「情熱」は古賀誠には値しない「情熱」のはずであったし、小泉首相からしたら、古賀誠の反対「情熱」はやはり値しない「情熱」で、相互に無価値と見なしていたはずだが、小泉首相は良くも悪くも自らの価値観を貫き、古賀誠は自らの価値観を貫き通すことができずに、相手の価値観の軍門にあっさりと降った。例え「心の中」の姿は違っていたとしても。一致させてこそ、「誠を貫けば 天まで通じる 至誠通天 政治に夢 誠 愛」を裏切らない態度と言うことができるというものだが。

 民営化された道路建設での〝着工凍結〟予定を〝着工先送り〟とする形の整備方針の国土交通省の決定をマスコミは小泉後を待つ民営化の骨抜きだと解説しているところをみると、道路公団民営化に関しては実質的な勝利は反対派ということになり、古賀誠が様々な変節・裏切りを働いて〝正々堂々〟と自民党に居残った甲斐があったとしたら、やはり「心の中」と外に現れた姿の不一致を物語る傍証となり得る。寝業師と言われる所以がここにあるとも言える。

 以上僅かながらでも見てきた古賀誠という人間の経歴から判断した場合、「心の中で分祀」なる言葉が「心の中」の実際の思いと一致すると見ることができるかどうかである。

 「心の中で分祀」がウソ偽りないものなら、昨年の6月に古賀誠が会長を務める日本遺族会の見解として「首相の参拝は遺族会の悲願なので粛々と進めて欲しいが、それと並行して近隣諸国にも気配りと配慮が必要で、理解してもらうことが大事だ」と纏めたことに会長である古賀誠が関わっていないはずはなく、その関わりが野中広務から引き継いだ中国とのパイプ役としての立場からの体裁を飾る見せ掛けのメッセージだったなら、「心の中」と外の姿との不一致を示し、何をか言わんやとなるが、「首相の参拝」と「近隣諸国にも気配りと配慮」を同時に満足する形で実現させるとしたなら、「心の中で分祀」が可能なら、「心の中で」参拝も可能となるはずで、古賀自身がまず身を以て実際の参拝は控えて、「心の中で」参拝することによって「近隣諸国」に「気配りと配慮」を示し得る模範を垂れて、首相の参拝も同じ形式で願うことで遺族と「近隣諸国」双方の希望に添うことができるのではないだろうか。「心の中の分祀」は「心の中の」参拝をまってこそ、誰からも勘繰られることのないウソ偽りのない真正な事実とすることができるはずである。

 それをしないところを見ると、「心の中の分祀」は合祀批判をかわすと同時に合祀を限りなく正当化させて分祀の動きを封じる、そのための演技・虚偽の類で、実際はA級戦犯分祀反対意思に添って、合祀されているA級戦犯をたっぷりと追悼した参拝だったのではないだろうか。あなた方は戦犯ではない。戦前の戦争は侵略戦争などではなかった。アジア解放の正義の戦争だったと。
 「市民ひとりひとり」

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