「自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会」に関する2006年4月13日の『朝日』朝刊の記事をその内容のまま纏めてみると、「最大のハードルとなっていた『愛国心』の表現について『伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』とすることで合意した」となる。
「愛国心」という言葉をストレートに表現して、教育の中心に持っていきたい衝動を、「国」に「郷土」を添わせ、なおかつ「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」心性と抱き合わせて、その中に巧妙に紛れ込ませている。
但し教育基本法改正案にどう盛り込もうと、「愛国心」表現はスローガン以上の効力を持たない。国旗・国歌法が義務化でないと言いつつ、義務を超え、強制化の姿を見せた前例を教訓とするなら、当然スローガンで終わらせない意図が働き、法案が成立・施行したなら、教育の現場で徐々に「愛国心」を前面に押し出す動きが生ずるだろう。
日本の〝伝統・文化〟と一くくりすることができる肯定的な価値を担った、社会の場で活用し得る伝統・文化なるものは果たして存在するのだろうか。存在するとしたら、教えてもらいたい。
多くの日本人が「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」を日本の肯定的な〝伝統・文化〟に挙げるが、日本人以外に自然を愛さない国の人間はいないし、それぞれの国にはそれぞれのきめ細やかさが存在する。きめ細やかさなくして、〝自然を愛する〟という精神行為は成り立ちにくいからだ。
「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が外国に於いても高く評価される様々な芸術品をつくり出してきた、それは日本独特の作品だと言うが、外国に於いても、それぞれの国の「きめ細やかさ」が自国以外にも高い評価を受ける独特の芸術作品をつくり出しているはずである。
例え「日本人のきめ細やかな心」が日本人独特の優れた感性で、それが日本の伝統・文化と共に育まれた成果物だとしても、日本人にしても社会の生きものとして存在し、活動している以上、そのような感性によって社会的活動の場面で、全体として歴史的に何を表現してきたのだろうか。「日本人のきめ細やかな心」に覆われた歴史・社会をつくり出してきたのだろうか。
歴史や社会を全体的に彩ってきたのは、如何に表面を華々しく覆おうと、内実はその多くが否定的な価値に分類されるカネ儲けを伴わせた権力欲・名誉欲・金銭欲・私利私欲・各種差別等をベースとした生存競争劇ではなかっただろうか。それが「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が歴史を超えて伝統として受け継ぎ、文化の形で綾なした果実だと言うなら、日本の優れた伝統・文化だということができるが、肯定が否定を生む矛盾が生じる。
この矛盾は、日本人全体が「自然を愛するきめやかな心」を持っていたとしても、その感性を生かして優れた芸術作品として形にできるのは一部の人間の営為でしかなく、その他大勢はその作品を鑑賞・感受することはできても、社会の生きものとして活動する場合は無力化するとする以外、証明不可能であろう。花を愛するからと言って、その人間の心が花のように美しいとは限らないという警句は一面の真理を示している。「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」とは、その多くは社会性として発揮される感性ではなく、個人性の範囲にとどまる感性でしかないということだろう。
利害の生きものである人間にとって、「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が利害実現の有効な手段となり得るなら、社会の場・人間関係の場に持ち込み、伝統・文化とすることが可能となるが、その逆の力学が社会に働いていて、持ち込み不可能としている。と言うことは、「自然を愛する」精神行為は生存活動に於いて目前の利害とはなり得ていないことを証明している。
小泉首相以下閣僚、自民議員は市場原理、競争原理と錦の御旗の如くにのべつ幕なしに言い立てるが、「自然を愛するきめ細やかな心」は自己を市場原理、競争原理に曝すとき、障害とはなっても、助けとはならない。企業が「自然を愛するきめ細やかな心」でリストラを冷酷に断行したと言うことは決してないはずである。
別の言い方をすると、現実社会は「自然を愛するきめ細やかな心」を人間活動の行動基準とはし得ない。「愛国心」にしても同じことが言える。目前の利害とはなり得ないゆえに、「愛国心」で人間は行動しない。行動させようと強制した場合、いわば目前の利害とさせようとしたとき、全体を一つの利害で縛る抑圧が精神的利害をも含む個人の否定を生じせしめる。戦前の日本はその最悪の場面を経験したはずである。
「愛国心」の間接的涵養を担わせた国歌斉唱・国旗掲揚を法律として教育の現場に持ち込んで、何がどう変わったか、まず検証してみることである。授業崩壊、校内暴力、いじめ、教師の各種犯罪等、教育の場に於ける様々な問題が改善の方向に向かったとでも言うのだろうか。単にその場限りに従わせているに過ぎない。
利害の生きものであると同時に生活の生きものである人間は、自己を十全に生かすことを最大基準に置いている。その保障が現在の社会では市場原理・競争原理であろう。極端な言い方をするなら、社会のルールさえ破らなければ、自分さえよければいい。しかし社会の一員としての制約から、そういった生き方の殆どが不可能なため、自己を生かすために他を生かす利害を受入れざるを得ず、その利害に従う。社会はそういった利害の相互取引によって成り立っている。今回の自公与党の文案合意にしても、利害の相互取引によって成り立たせたものであろう。「愛国心」にしても、自己を十全に生かすかどうかの基準に従う利害の相互性から免れることはできないゆえに行動基準とはなり得ていない。利害によって、それぞれの価値観が生じる。それを無視して、国家の価値観として押し付けようとしている。
「愛国心」を言うなら、その存在自体が国家を代表し、その言動によって国家が体現される政治家・官僚がいつ如何なるときでも自らの義務と責任に反しない姿を心がけて、国民それぞれに一国民として、あるいは一市民として、社会のルールに則った生き方をすべき模範となることだろう。模範となり得ていないにも関わらず、「愛国心」を言うのは滑稽な矛盾・滑稽な本末転倒でしかない。
国家を代表とする政治家・官僚が国民の手本となる生き方をしたとき、そのような生き方こそが肯定的価値観を持った伝統・文化となり得るのではないだろか。まあ、逆立ちしたって無理だろうが。
政治家の贈収賄、不正政治資金、私利私欲、裏取引、官僚に対する管理・監督の不行き届きと癒着等の怠慢、あるいは官僚のカラ出張だ、カラ手当だといった薄汚い私腹肥やし、タクシー代の水増しだホテル代の水増しだで浮かせたカネで飲み食いする卑しい乞食行為、天下りによる不正利益の獲得等の蔓延は、大上段に構えた「愛国心」教育を以てしても、教育を受けた子どもが大人になった将来に於いても解決しないだろう。明治・大正・戦前の昭和に於いても政治家・官僚の不正行為・犯罪は存在したことがそのことを証明している。解決するとでも思っているとしたら、その感性を疑う。アベ君、どうだね。