労働生産性から見る公務員削減

2006-04-09 04:34:17 | Weblog

 小泉首相は国家公務員の総人件費削減に関して、「平均して5%の定員純減を5年間でという目標を掲げている」が、「各省一律に公務員を減らせと言うことではなく、国民の安全に関する部門以外で定員純減に取組む」方針を示した。

 「国民の安全に関する部門」とは、「警察官、入国管理局の公務員は増やしている。必要な点は増やす」ということらしい。

 定員純減に関して各省との交渉役の中馬行革担当相は、「能力主義の人事・給与制度導入の公務員制度改革でなくては定員純減は難しい」と言う考えを示している。
 
 「能力主義」をムチに尻を叩くことで一人一人の能率を上げ、全体の仕事量の底上げを図って少数精鋭の形を取り、そこから余剰人員を弾き出して定員削減を可能とすると同時に、そうしない場合の弊害を取り除こういうことなのだろうが、小泉改革のこれまでを見ると、どうせ中途半端に終わる運命にあるのではないか。少数精鋭が可能なら、既にそういう態勢を取っただろうからである。小泉首相本人はこれまた今までのように、実を結ばないうちから成果を誇るだろうが、一旦は削減したものの、この人数では満足に仕事が消化できないからと、後からこっそりと採用して元の状態に戻るといった後退はよくあることである。

 「能力主義」と小泉首相の「警察官、入国管理局の公務員は増やしている」は矛盾していないだろうか。警察や入国管理局にも中馬某の言う「能力主義」を導入して仕事量の底上げを図り、少数精鋭態勢を取ったなら、「増や」す必要はなくなる。そうせずに増やすのは、小泉首相がひそかに日本を警察国家にしようと企んでいるからだろうか。安倍晋三が教育基本法に愛国心の涵養を盛り込もうと企んでいることと考え併せると、どうもそういうふうに勘繰りたくなる。

 入国管理局の職員の収容外国人に対する暴力・暴行もそうだが、日本の警察は特に悪名高い。捜査協力費の流用・不正経理・警察官でありながらのワイセツ・強姦・盗み・万引き、そして怠慢捜査・調書改竄・事件揉消し・裏ガネ・移送中囚人逃亡等々。

 当り前のような状態で新聞・テレビを賑わすこういった姿は真面目で勤勉で仕事を能率よくこなす日本人を想像させるだろうか。すべてではないと言うだろうが、決して一人や二人ではない跡を絶たない状況が構造的な欠陥であり、日本の警察の体質となっていることを証明している。

 少なくとも管理の不行き届きが招いている醜態以外の何ものでもないはずである。醜態が常態化している状況は、管理側(いわば上層部側)の管理能力がいつまでも未熟で隙だらけ、下の無規律についていけない状況にあることを示している。言い換えれば、上が上なら、下も下と言うことであろう。組織の全体的な構造不全そのもので、その結果として警察の場合は検挙率の低さという機能不全に象徴的に現れている非能率なのではないだろうか。

 構造不全に陥っている組織に人員をいくら注ぎ込もうが、税金のムダ遣いと頭数を増やすだけで終わるのは目に見えている。「能力主義」を言うなら、警察官の職務怠慢、公金での飲み食い、犯罪、私腹肥やし等の体質を一掃して、逆に仕事が能率よくできる体質への転換を図る意識改革を強力に推し進めて、検挙率の高さに反映できるよう持って行く。体質のそういった改革によって、逆に人員削減につなげていくことこそ本質を把えた公務員改革と言えるのではないだろうか。

 小泉首相がその逆を行くのは、この男の力量と言ってしまえばそれまでだが、「公務員制度改革」に反する措置のように思える。

 「能力主義の人事・給与制度導入」がここにきて言われるのは、業務が能率的に発揮できていない状況が公務員の全体的問題として存在していることの裏返しで、その是正に向けた施策であろう。公務員業務が全体的に非能率であるということは、広く言えば当然のこととして、日本の労働生産性にも関わっているはずである。そこまで視点を広げて対策を講じないと、絵に描いた餅の運命をたどらないとも限らない。

 どれ程の余剰人員を弾き出せるか。元々日本のホワイトカラーの労働生産性は現場労働者と比較して低いと言われている。いわば、能率の点で劣っている。日本人は勤勉で真面目だという評価が労働生産性に成果となって現れていない。これは表面的にただ単に「勤勉で真面目」であるというだけのことで、評価自体が幻想に過ぎないということだろうか。

 警察官や社保庁、防衛施設庁、かつては大蔵省や外務省といった官公庁や特殊法人の不正行為を見たら、「勤勉で真面目」と言う評価は見せかけでしかなく、幻想に軍配を上げなければならなくなる。

 「勤勉で真面目」が事実であったとしても、労働生産性で見た能率の悪さはこれまた事実としてある数字であって、それが日本人の本質的な力量だとすると、「能力主義の人事・給与制度導入」を行ったからといって、本質を改善する力となりうるかということが問題となってくる。

 社会経済生産性本部が発表した2005年版「労働生産性の国際比較」によると、「購買力平価で換算した2003年の日本の労働生産性は5万6608ドルで、OECD加盟30カ国中第19位であった。先進主要7カ国の比較では、日本の労働生産性水準は最下位で、米国の7割の水準にとどまっている。日本の労働生産性の水準は国際的に見て決して高いとはいえない」とある。

 しかし「日本の2003年の製造業の労働生産性水準は24カ国中第4位であった」。「なお主要先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位であった」

 製造業の労働生産性水準が「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」であるにも関わらず、全体に均すと、「OECD加盟30カ国中第19位」、「先進主要7カ国」中「最下位」というのは、サービス業やホワイトカラーの生産性がより低いことを物語っている。勿論、その生産性の低さに警察に限ったことではない官公庁、地方自治体の公務員のコスト意識の欠如、職務怠慢、非能率、放漫経営が大きく寄与し、足を引っ張っているのは間違いない。

 確かに農業部門の生産性が特に低いことが全体の生産性を低くしている側面もあるだろうが、日本は技術が優れているという評価を裏切って、知恵の出し具合が不足しているということもあるだろう。

 いずれにしても、部門に応じた不均衡は何が原因でもたらされているのだろうか。

 日本人の労働生産性とは詰まるところ、日本人の一般的行動性が労働の場に於いてどう対応するか、その姿勢がつくり出す仕事の能率のことであろう。ホワイトカラーであろうとブルーカラーであろうと、一般的行動性は本質的には同じである。となれば、部門ごとの労働環境での一般的行動性の対応とそれぞれの違いを見ることで、労働生産性のありようを解き明かせないことはない。

 解く明かす一つの鍵が、「2001~2002年の労働生産性上昇率のトップは金融保険の7・3%」であるとする同じ社会経済生産性本部の報告ではないだろうか。同じ報告で「全産業、製造業とも、1・0%の改善率であった」というから、製造業以外の一般的に低いとされている労働生産性に対して、「金融保険」の突出した「上昇率」「7・3%」は特別の理由付けなくして説明できない事柄であるはずである。
 
 日本人は一般的に主体的・自律的に行動するのではなく、権威主義を行動様式としている。権威主義とは言うまでもなく上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向を言う。従わせ・従う行動を成立させる条件は命令・指示のシグナルによってである。命令・指示を発して従わせ、命令・指示に応じて従う。そのような従属が極端化した場合、命令・指示の範囲内で行動することとなる。例えばマニュアルに書いてある規則どおりにしか行動できない人間がそれに当てはまる。児童相談所等が子どもの虐待を事前に把握していながら虐待死に至らしめてしまうのは、規則(=マニュアル)に従うことでしか対応できない人間ばかりだからではないかと疑いたくなる。
 
 上は下を従わせ、下は上に従う行動は命令・指示が有効であることによって、より活動的とし得る。当然能率は上がる。

 「金融保険」業務に於ける就業者の業務行動は何によって条件付けられているか考えると、景気・不景気の動向とか、不良債権処理の進行といったことに左右されるものの、一般的にノルマが数値で示され、成果に対する相対評価にしても絶対評価にしても、これ以上明確なものはない数値で表され、誰もがそのノルマ達成に向けて邁進しなければならないシステムとなっている。特に組織間の競争が激しくなれば、ノルマもより厳しく設定される。

 ノルマとは言うまでもなく達成を目標に割り当てられた仕事量のことであって、ノルマに従って行動するよう仕向けられる。達成を目標に割り当てられること自体が既に命令・指示の形を取っていて、ノルマそのものが命令・指示の役目を本来的に体現していることを示している。

 いわば命令・指示が常にスイッチオンの状態になっていて、それが心理的な監視の役目を果たし、一方でノルマの達成度を見ることで、仕事量が一目瞭然と分かる仕組となっている。

 このような状況は日本人の一般的な行動性に於ける命令・指示に従って行動する構図と符合する上に、ノルマが命令・指示を監視する役目を果たしていることと、ノルマとして表されている命令・指示への忠実な従属が各自の業績に関係してきて、それに刃向かうことができない強迫行為(=従属一辺倒)が可能とした「7・3%」ではないだろうか。

 もしこの分析が妥当であるとしたら、製造業に於ける労働生産性の国際比較値の高さも、命令・指示の有効性をキーワードに説明できなければならない。

 製造現場では1日の生産量がノルマとして決められていて、なおかつ流れ作業に常に追いついていかなければならない命令・指示に当る強制が常に働いている。その上製造現場では上司の監視の目が行き届いていて、無言・有言の命令・指示の役目を果たしている。そういった二重三重の命令・指示の強制力学が日本人の一般的な行動性となっている下の上に従う従属性を否応もなしに活性化させて、そのことが製造業の労働生産性水準を「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」という地位を与えているとする分析でなければならない。

 そういった強制力学の影響が少ない場所が公務員や一般企業サラリーマンのホワイトカラーの労働現場であろう。労働を促す命令・指示への従属を監視する制度の希薄さが、比較対照的に労働生産性の低さとなって現れているということである。
 
 以上のことの傍証となる日本人の一般的な行動を例示することができる。川の草刈といった地域活動は、地域が年に1度とかの決めた日に決められた人数で行うことが一般的となっているが、地域の役員と駆り出された人間との間に本人の生活に関係してくる雇用上の給与評価といった直接的な利害関係が存在しないから、遅刻や中途退出は当たり前の現象となっているし、集団が大きいほど、誰がどれ程の仕事をしたか判断しにくいために適当に仕事をする人間が現れる。少し手を動かしては、すぐに手を休めて、他人の仕事を眺めてばかりの人間もいる。どれもが自己の生活と様々な利害関係で結ばれている雇用先では許されない手抜きであろう。当然、草刈といった集団で行う地域活動の労働生産性は決して高いはずはない。

 そういった手抜き=労働生産性の低さを許しているのは、地域の役員の駆り出した人間に対する命令・指示が双方の生活上の利害が直接的に関係していないことも手伝って、彼らを従属させるまでの力を有していないことが原因しているのは言うまでもない。

 また、年に1度の草刈では、その間雑草が伸び放題となるために、誰かが本人の意志のみで一人で草刈でも始めようものなら、「決められてもいないことをやるべきじゃない。一人がやれば、みんなもやらなければならなくなる」と、それが新たな決まり事となって駆り出されることを嫌い、地域の決まりごとへの従属を最小限にとどめようとすべく拒絶反応を示す人間もいる。
 
 いわば決められたことはやるが、決められていないことはやらないという命令・指示の範囲内で従属することを行動に於ける習性とした、他との関係で自己の行動を決定する他律性としてある権威主義的行動様式そのものの現れは元々日本人の一般的傾向としてある姿だが、命令・指示が自己の利害に影響しない場合は、従属を最小限にとどめたり無視したりすることも、他律性(=権威主義的行動様式)に則った行動であろう。

 ホワイトカラーの労働生産性が地域活動の草刈といった労働生産性よりも低いものであるとしたなら、組織管理が無規律・無計画・無成熟であることを証明するだけのこととなるから、ホワイトカラーの一般的な労働生産性にも劣る地域活動の消極的・非能率な態様と見なさなければならない。日本人が事実勤勉であるとするなら、組織活動に於いても地域活動に於いても同等の勤勉さが発揮され、同等の労働生産性を上げるべきであるが、そのことを裏切るあってはならない両者の落差は命令・指示の監視の有無、及び従属に向けたその効力の度合いを条件として初めて説明し得る。

 このことは製造業とホワイトカラーの労働生産性の格差にも応用しうる説明であろう。

 命令・指示の監視と従属へのその効力を条件とした行動性はビン・缶のポイ捨てにも現れている。ポイ捨て禁止は条例も含めて社会的な約束事となっている命令・指示であることから、世間の目・他人の目が届いていて、それが捨てるな・捨ててはいけないという命令・指示の監視となって従属せざるを得ない場所ではポイ捨てはしないが、それがない場所では平気で捨てる。捨てたビン・缶が目につきにくい中央分離帯の植え込みの中や雑草が一面に生い茂った土手下の川、あるいは道路脇の竹やぶ等を特定の捨て場所とするのは、犯罪者が犯罪の証拠を隠すことで自己の犯行そのものを隠そうとするのと同じく、捨てたビン・缶を見えなくすることで命令・指示への従属を破った自己の〝犯行〟をも隠そうとするからだろう。

 社会的公徳心までが自律的行為からのものではなく、規則や習慣に対する従属行為となっている。従わなければならないなら従うし、従わなくてもよければ、従わない。日本人の労働生産性を高めるには製造業の労働生産性の高さを習って、「能力主義の人事・給与制度」をムチとする方法をも含めた命令・指示の監視を強化して、上が下を従わせ、下が上に従う従属的行動性を強固に効果たらしめて、否が応でも従わせる方向に持っていくことで、解決するのか、労働に対して自律的姿勢を持たせることから改善する方向で解決するのか、どちらかの選択にかかっている。

 元々日本人は子どもの頃から親にああしろ、こうしろと命令・指示を受けて、それに従属する形で自らの行動を形成してきた。学校に入ると、教師が教える教科書の内容をそのままの形で暗記するなぞり教育によって、その原理となっている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的な従属性を家庭に引き続いて刷り込まれ、補強・強化を受ける。そこには自分で考え、自分で選択・決定する自律性の要素は介在しにくい。そのような学校教育を受けて育むこととなった暗記知識の応用には強いが、自ら問題を把えて考え、結論づけていく力が不足する偏った傾向は相互対比的に、命令・指示に従うことには効率よく順応するが、そのことへの一辺倒の慣れが、自分の判断で行う自律的行動への対応が未成熟という逆の行動性となってものの見事に現れている。

 安倍晋三は愛国心までも学校教育でなぞらせ、従わせようとしている。かくして日本人は従属型人間へのなお一層の束縛と強制を受け、ますます自律性から遠ざかることになる。当然、製造業以外の労働生産性は命令・指示の監視を強めて、物理的・心理的に従属を強制する以外の方法では改善しないことになる。自律性なき改善である。「能力主義の人事・給与制度導入の公務員制度改革」をもムチとして利用し、従うことが善となる。

 だが、そういった体制は命令・指示の監視に対してバブロフの犬並みに条件反射的に有効となり得ても、そこに自律性が存在しなければ、限界を抱えることにならないだろうか。

 大体が大の大人を命令・指示の監視で従属させようとすること自体、情けない話である。命令・指示の監視なくして自ら活動する自律した人間こそが、望ましい日本人であるはずである。「能力主義の人事・給与制度導入」のムチで公務員改革を成し遂げるか、気の遠くなるような時間がかかるだろうが、自律性を持たせることで成し遂げるか。

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