遺書がすべてを語るわけではない

2006-04-02 09:07:15 | Weblog

総領事館員の自殺に対する安倍晋三の単純な判断

 04年5月、上海の日本総領事館で外務省との通信を担当する男性館員が中国公安当局から機密情報を求められ自殺した原因を、安倍官房長官は遺された遺書に脅迫等の行為があったとの趣旨が明記の上、自殺に至るまでの経緯が詳しくつづられていたとした上で、「中国側公安当局関係者による非情な脅迫、恫喝ないし、それに類する行為があったと判断される」と記者会見で明らかにした。そもそもの経緯は男性館員の女性問題を材料に中国公安当局関係者が仕掛けた情報提供要求で、そこから始まった顛末だという。

 自殺はそれを決行する本人にとって、最後の逃げ場ではないだろうか。この世で逃げ場を失って、死が残された最後の逃げ場となる。
 
 自殺が最後の逃げ場である以上、人間の自然としてそこに至るまでにどうにか自分をこの世で生かす逃げ場をあれこれ見つけようと足掻くに違いない。

 カネを渡されたり、女を抱かされたりしたのか、あるいは秘密にしなければならない女との関係を弱みとして握られた。そのいずれかをネタに不当な要求が始まる。その時点で一切の要求に応じなかったなら、暴露されたとしても、本人にとってはどうにか耐えられる範囲の弱みか、耐えられないが、応じた場合の弱みの上乗せが自分を窮地に追いつめる危険を考えて、要求を呑むことよりも弱みを暴露されることの方を強い意志で選んだといった場合だろう。
 
 暴露された場合、一身上に傷を負うことはあっても、完全に逃げ場を失うわけではないにも関わらず、世間体といった自己保身から要求に応じる逃げ場を選択するケースもあるはずである。

 最初の弱みを暴露されただけでこの世での逃げ場を完全に失ってしまうとしたら、その弱み自体が自分で自分の首を絞める悪質なもので、要求に応じること自体が自殺以外の最後に残された逃げ場となるに違いない。しかし、この手の要求は終わりを見ることはないだろうから、自分を生き地獄へ落とす逃げ場となるのは目に見えている。それでも要求を呑む。

 いずれの場合に於いても一度要求に応じたなら、要求が次第にエスカレートしていったとき、次は断ろうとしても、引き続いて応じたことで自分から積み重ねることとなる弱みが高利の利子みたいにのしかかってきて、もはや人に相談できる類の弱みから遠く離れてしまう。毒を食らわば皿までで、要求に応じ続ける逃げ場に自分を追いつめるか、応じた場合の空恐ろしさから、それができかねた場合、すべての逃げ場を失うこととなって、死を選択するか、二者択一の道しか残らなくなる。

 自殺を逃げ場とするにしても、そうせずに要求を断るにしても、すべては自己の責任意識の問題であろう。責任をどう果たし、何によって決着づけるか。

 麻生外務大臣が「誘いは常にあるので、それがあればすぐ上司に報告する方が、後々問題を拡大させたり、深みに入らせないために大事なことだ」と記者会見で述べていたということだが、男性館員が上司に報告せずに自殺を選んだのは、報告する責任を回避したことによって報告できないところにまで逃げ場を失っていたからだろう。

 結果として自殺を逃げ場とした。例え総領事館の男性館員がたった一度の要求にも応じなかったと仮定したとしても、死を選択した以上、自殺を逃げ場とした事実は変らないし、自殺が要求に対する最終回答であったろうから、要求する者に対する闘いを選択せずに、それを避けて、自殺という場面へ〝逃げる〟という責任放棄を行ったことを意味することにもなり、要求に応じた、・応じないはさして重要な問題とはならない。

 あるいは遺書が死を以て抗議する形を取っていたとしても、自殺を抗議の唯一の方法としたということは、本来的な立場で遂行すべき抗議(自分の立場を失わせることになったとしても、事実をより多く解明できただろう)を自殺を手段に行ったのであって、そうすることを逃げ場としたことに変りはない。

 いわば、自殺は残された最後の逃げ場であると同時に、逃げ場とすることによって責任放棄を同時並行させる手段でもある。安倍官房長官は記者会見で中国側公安当局関係者の非を訴えているが、それ以前の問題として、自殺を逃げ場とした本人の責任意識(責任放棄)を問わなければならないのではないだろうか。簡単に言えば、本人の責任意識が直接的・間接的になさしめた事件なのである。
 
 遺書が、本人の責任意識に関わる不明・愚かさを責める内容を最初に持ってきている内容ではなく、中国当局の策謀を批判的に主体とし、それに仕方なく自分が対応していく経緯の内容――いわば、自分を被害者に置いた内容の記述であったなら、自殺を逃げ場とした責任放棄を隠して、逆に正当化する、そうでなければ、少なくとも罪薄めする、そのための逃げ場にも利用した可能性を疑わなければならない。遺書に書いてあったからといって、言葉どおりに読んだだけではすべての真相が明らかになるとは限らないと言うことである。

 かつて外務省は省ぐるみで不祥事を横行させた。官房機密費の不正流用、タクシー代やホテル代の水増し請求で得たカネを原資とした不正着服、飲食代などへの不正流用その他が外務省の半数近くに当る約30課で行われていた上に、かなりの数の外国大使館の大使や館員、料理人までもが、経費の私物化、不正流用といった乞食行為をやらかしていた。、

 今回発覚した防衛施設庁の官製談合が、かつての防衛庁装備調達実施本部の背任事件や贈収賄事件と本質的に何ら変らない、同じ意識(=責任放棄)を構図とした事件であったように、上海日本総領事館員のそもそもの不始末とその後の展開が、かつての省ぐるみの不祥事、あるいは乞食行為をつくり出した責任意識を少しでも引きずった出来事だったとしたら、中国に抗議するだけの問題で終わらせるわけには行かなくなる。
 「市民ひとりひとり」

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