以下の文章は2001年11月11日にHP「市民ひとりひとり」に載せた自作の記事(「雑感AREKORE6」)です。内容は、小泉純一郎のどこの国にもあるとする〝格差社会〟容認論とは違います。従来から政治家・官僚・企業の不正なカネの獲得・不正利益のほしいままを一方に抱えた〝格差社会〟であって、私の言う「格差社会を認めよう」とは内容が全然違います。ライブドアの粉飾決算等の不正にも関係してくると思います。興味のある人は読んでみてください。
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かつてのソ連でも、貧富の格差はあった。政権・共産党に関わる一部の高官が自己の地位・権限を利用して極上の甘い汁を吸う特権階層を形作っていた。個人の活動を可能な限り保障する自由主義諸国家にあっては、個々人の能力の差に応じて所得の格差は当然生じる。
人気スポーツの花形選手が億単位の年収を得る。その一方で年収200万に満たない生活者がいる。中には主義主張から選択した生き方である場合もあるだろうが、殆どは社会から落ちこぼる形で弾き出された、収入が限りなくゼロに近いホームレスという名の路上生活者もいる。そういった年収数値の経緯、あるいは結果性は能力の種類と内容に応じて(生き方や人間関係も影響するだろうが)市場経済社会のルールに従って、その需要と供給の関係が決定する。
共産主義の計画経済ルールが破綻した現在、自由主義の市場経済ルールが唯一課せられた、そこから逃れられない、失敗者にとっては桎梏でしかないが、生きるルールとなっている。
唯一の共産主義大国中国においても、あるいはベトナムにおいても、計画経済を放棄して、〝社会主義〟の名を冠しながらも、自由主義(自由競争)に基づいた市場経済を国民生活向上の重要な柱とした。国民生活の向上なくして国力の充実はないからだ。
共産主義型計画経済への後戻りの歴史はもはやあり得ないだろう。その理由は、「貧しきを憂えず、等しからざるを憂える」という共産主義の理念は人間の理想であって、「貧しきを憂えると同時に、等しきも憂える」自由主義の競争原理こそが人種・民族・国籍を超えた否定しがたい人間の現実だからである。同じ仕事をしながら、能力ある者と能力ない者との報酬が〝平等〟なら、能力ある者の気力を削ぐことになって、〝平等〟を獲得するために能力ない者の非能率に合せた能力の抑制を否応もなしに誘発され、そのような能力抑制のモメントは、水の流れのようにより低い非能率に向かって勢いづく。そして旧ソ連やかつての中国に見てきたように非能率・事勿れ・無気力の風潮が蔓延して、社会の停滞を最終結果とする。逆説するなら、社会の活性化は、「等しからざるを」当然としなければならない。
露骨なことを言えば、人間を最大限に動かす最も有効な方法は、カネ(札束)で尻を叩くのが一番だということである。
確かに社会的弱者の生活を社会的に保障する所得再配分制度の充実は必要だが、それは人間の現実から離れた〝平等〟の方向に持っていこうとするもので、その制度を手厚くするには、その資金を税収の形で持てる者から順に多く徴収する〝不平等〟を課すことでもある。税金は誰にとっても、仕方なく払うものであり、それも人間にとっての現実であることを否定することはできない。
このことは計画経済であろうが自由経済であろうが、相互に一方の〝平等〟が他方の〝不平等〟を招く矛盾した構図を抱えることを示しているが、〝人類の理想〟を自ら考え出したとしても、実現するだけの力を持たない人間にとっては、〝人間の現実〟を選択することが、比較的には平等になる。
但しである。いくら「貧しきを憂えると同時に、等しきも憂える」自由競争が〝人間の現実〟だからと言って、手段を選ばない競争であってはならないのは言を俟(ま)たない。自由競争は公正な手段を絶対条件とするということである。
よく言われる「機会の平等」とは、公正な機会の付与ということに他ならない。学歴で差別する。コネを使って天下りし、多額の報酬を得る。カルテルを結び、利益の独占を図る。背任行為で不正蓄財する。ワイロを贈って、不正に便宜供与を受け、利益を得る。その逆にワイロを取って、不正行為に手を貸し、何らかの甘い汁を吸う。地位や職務、あるいは管轄権を乱用して、私腹を肥やす。脱税して、不正に財産を蓄積する。多額のカネを使って子どもを医大に裏口入学させ、医者にしていい暮しをさせる。人格や能力を無視した縁故採用・縁故取引で公平さを阻害する。
どれを取っても、自由競争に対する妨害であり、侮辱以外の何ものでもない。自由競争の悪用、〝人間の現実〟の歪曲そのものの悪質な犯罪行為に他ならない。そのような〝悪用〟・〝歪曲〟が社会の隅々にまで跳梁跋扈している。
市場主義(自由競争)のルールが〝人間の現実〟である以上、それに基づいた能力の成果に応じて所得に格差が生じるのはやむを得ない。だが、競争を限りなく公平なものにするためには、「機会の平等」(公正な機会の付与)の厳密な実現(=ルール違反の根絶)を絶対条件としなければならない。ルール違反を根絶したとき、「機会の平等」(公正な機会の付与)はすべての人間にとっての共有財産となり得る。
そのためには、ルール違反者の厳しい摘発と、裁判による厳しい懲罰以外に方法はないだろう。例えば、億単位の背任によって企業に多大の損害を与えた、あるいは国民の信頼を裏切った場合は、財産の没収の上、10年20年の禁固刑に処するぐらいでなければ、「機会の平等」(公正な機会の付与)の厳密な実現(=ルール違反の根絶)は不可能だろう。そのことはこれまでのような不平等社会を延々と引きずることに他ならない。
要するに、貧富の格差の容認は、「機会の平等」(公正な機会の付与)の完全な実現を絶対前提としなければならない。