中国製毒入り餃子/魔女狩りに等しい中国標的

2008-02-04 08:58:51 | Weblog

 それでも中国製品を必要とする

 二、三ヶ月前、100円ショップに中国製の皮付き落花生を求めにいったら、いつもあるのにどこを探してもない。たまたま売り切れたのかと思ったので、そのときは諦めた。100円ショップで買うと消費税と共に105円になるが、同じ製品が業務用スーパーでは消費税込みで98円で買える。ただちょっと遠いので、月初めのその他の食品と合わせたまとめ買いのときに5袋買うことにしているのだが、酒の肴に急に食べたくなって買うときはつい近くの100円ショップに自転車を漕いで買いに行くことにしている。

 去年の夏に自転車を買ったのも、ガソリン対策の節約から。10日程してから再び100円ショップに行って落花生を探したが、やはりどこにもない。店員に聞いたら、菓子が並べてある棚をあちこち眺めてから、「すみません、切らしているようです」と言う。

 だが、月が替わって業務用スーパーに行ったとき、100円ショップに落花生が置いてなかった理由がすぐさま分かった。98円で買えた落花生が138円の値札をつけている。40円もの値上がりである。これでは100円ショップに置くことはできない。「いえ、値が上がって100円ショップでは扱えなくなりました」と言えなかったのかもしれない。今後とも値上がる製品が続き、100円ショップから姿を消していく商品が跡を絶たないに違いない。

 スーパーで一パック100円で買えた肉厚の生しいたけが値上げしたのはもう2年も前のことではないだろうか。中国農産品の残留農薬問題が騒がれ、店頭から一時姿を消していたが、暫くして再び同じ値段同じ量で並べられていたが、それもほんの短い間で、値がかなり高くなった。日本製はそれ以上に高すぎてとても手だ出ない。だが、中国製野菜も値が上がりつつあり、なかなか手が出せない状態となっている。

 今回の農薬入り中国製餃子問題でテレビに出ている連中はどの局でも同じように「中国製食品はもう信用できない」とか、「中国製食品に対する不信感はもう拭い去ることができないところまで来ている」、「中国製食品を食べることはやめて、少しぐらい高くても安心・安全な日本の食品を食べた方がいいのではないか」と言っている。

 あるいは中国人は人間の生命ということを深く考えていないのではないかと、チッソ水俣病やエイズ非加熱製剤問題、C型肝炎問題等の人命軽視の生命の引き剥がしをケロッと忘れて、さも日本人が人間の命の大切さをいつも考えているかのようなことを言う。

 同じ連中が暫く前は国内の食品偽装・食品偽造問題で食品不信を並べ立ていたのである。「何を食べていいのか分からなくなった」、「賞味期限が信用できないなら、何を基準に買っていいかのか」、「私たちは新米と信じて、新米でない物を食べていたのだ」

 連中の健忘症はテレビに選ばれて出ている者――テレビエリートだけのことはあって、そのご都合主義は見た目は分からない残留農薬のように見えにくい。連中に健忘症を許しているのはテレビに出て喋ることの正義性であろう。あるいはマスコミが抱えている正義性と言ってもいい。勢い中国製品を槍玉に挙げることで自分たち自身を正義漢に仕立てなければならない。TBSの「朝ズバッ」のみのもんたなど、その最たる存在だ。

 自分を正義漢に置いた正義の批判は魔女狩りの姿を取りやすい。最近のいい例がテレビで盛んに展開された朝青龍問題であろう。朝青龍を一人極悪人に仕立てて、自分たちは言葉で仕立てた正義の刃を振り回し好きなように攻撃していた。

 これは「栄光欲」の逆説的行為と言える。「栄光欲」の心理は高い評価を受けている他者と自己を結びつけて自己自身の評価を高めようとする心理機制のことで、その典型的な例が有名人の名前を挙げて、俺はだれそれを知っていると自慢し、さも自分がたいした人間であるかのように振舞うことに現れているが、その逆説とは中国製餃子問題に当てはめて言うと、非正義に対して自己を正義に置くことで自己自身の評価を高める心理機制となる。

 「栄光欲」の心理機制は既に合理的な客観性、あるいは客観的な自己認識性を失っていることによって発揮可能となる。この構図をさらに逆説すると、テレビで何様の正義漢を演じるには合理的な客観性、あるいは客観的な自己認識性を欠いていることが絶対条件となる。合理的な客観性、あるは客観的な自己認識性を欠いた者のテレビでの発言とは何と倒錯的であることか。

 地球温暖化の観点から、中国やオーストラリアといった遠い外国から農産物や肉類を船や飛行機で運ぶとCO2の排出問題があって安いようで高くつくから、日本の食糧自給率を上げるためにも国産品を買うべきだと言っていた女がいたが、生活格差問題を扱うときは貧乏人の味方であるかのようなことを言っていて、これも見事な健忘症である。

 生活保護を打ち切られて、食べ物を買う資金がなく餓死する人間も出ている。世の中には生活保護費よりも安い国民年金で生活している人間も相当いる。そういった人間が外国からの安い製品に頼らずに生きていけると思っているのだろうか。
 
 またそれなりに不自由しない生活を送っていても、まだ幼い子供の将来の教育資金に収入の一部をまわさなければならない、あるいは家のローンを抱えているといったことから生活を切り詰めている家庭の多くがいくつかのスーパーのチラシを並べて安売り食品だけをピックアップし、スーパー巡りしているといった光景は当たり前の状況となっている問題で、スーパーがそのような機会を提供し得るのは安売り商品の多くが外国産の安い食品だからであろう。

 そういった買い物を経験したこともないし、例え知識として頭にはあっても元々客観的認識を欠いているから、別の話題に頭が集中すると、他のことは健忘症の生贄としてしまう。日本人はテーマを与えてやると、そのテーマだけに集中して力を発揮すると言われているが、上に従ってなぞる権威主義からの一極集中性のテレビエリート版である。

 非正義を批判するのはいい。だが、決して自己を正義漢の立場に置かないことだ。利害の生き物であることから免れることができない人間が純粋に正義漢に変身できようがないからだ。

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