橋下当選とハンドボールやり直し戦ファン状況との類似性

2008-02-01 11:54:36 | Weblog

 「栄光欲」をキーワードに読み解く

 中東チームに身贔屓な笛の吹き方をされることから名づけられた「中東の笛」をテレビ各局が取り上げて以来注目を集めることとなったハンドボール競技・北京五輪アジア予選のやり直し戦が東京代々木競技場で日本と韓国の男女両チーム間で行われた。

 その観客動員である。1月29日の女子戦の場合は4200人の観客を集め、翌30日の男子戦は1万257人も集めている。日本のハンドボール人口の殆どが高校、大学の部活か実業団のチーム内にとどまっている状況の中での、あるいは実業団の公式試合でも数百人程度の観客しか集めないこともあるという状況の中でのかつてない一大フィーバーであったらしい。ハンドボール人口そのものは8万5000人だと、蒲生男子総監督自身が言っている(≪蒲生総監督に聞く 女子29日、男子30日“日韓決戦”≫スポニチ/08.1.27)。

 観客のフィーバー以上に今までに経験したことのない報道各社のテレビカメラの放列フィーバーではなかったか。どの民放もワイドショーを含めた報道番組の殆どが一日中試合の展開と同時に続々と集まる観客と試合中の興奮振りを伝えていた。

 男子の試合の場合、<地鳴りのような声援に代々木第1体育館が揺れる。スタンドは2階席の隅々までジャパンブルーで染まった。>(08.1.31/サンスポ≪【ハンドボール】会場で1万人熱狂!日本中でハンド“狂騒曲”≫

 男子戦では徹夜する者も出たという。観客席が埋まることはなかったに違いないハンドボールの試合では前代未聞のことだったろう。但し6名のみ。この人数は象徴的でもある。

 収容人員が1万3千人程度だということだし、入り切れなかったファンがいたという報道もない。ハンドボールの試合でそのような事態が生じたなら、異常と見做されただろう。天変地異が起こる可能性を疑った方がいい。なぜ6人は必要でもない徹夜までしたのか。

 上記記事は伝える。<一番乗りの神奈川・茅ケ崎市の村山直樹さん(29)=会社員=は、前夜の最終電車に乗り午前2時に到着したという。「試合を見るのに徹夜なんて初めて。どうしても観戦したかった」と顔を上気させた。>

 マスコミのインタビューを受けて、彼は大満足したに違いない。「午前2時に到着」してまで徹夜したことを知らせたくて。運悪くマスコミに知らせることができなかったなら、友人・知人、誰彼なしに徹夜の事実を伝えていただろう。

 テレビで二十歳前後の若い女の子が「テレビを見て、カッコいいなと思って・・・」と高潮した顔で観戦に来た理由を話していた。彼女自身もテレビカメラを向けられ、テレビに自分の顔が映ったことで満足したはずだ。注目を浴びたのである。「中東の笛」のお陰でマスコミに注目されて世間から脚光を浴びることとなった日本の男女ハンドボールチームのようにその試合を観戦に来て、自分もマスコミの報道を通して世間の目が自分に向けられたことを知ったろう。

 観客の殆どが男女とも若者で占められていたが、日本ではマイナーに位置づけられているハンドボールの状況から考えると、その多くはハンドボールの試合を満足な形で見たこともないだろうし、関心すら持ったことがない者も多くいたに違いない。そうでないとしたら、多くのファンを抱えながら、「中東の笛」以前は観客席を埋め尽くすには程遠い入りを続けていたという辻褄の合わない奇妙な逆説を生み出すことになる。

 マスコミを含めた世間から「注目」の機会を得るには肯定的・否定的ケースの別なく大いなる活躍主体であることを条件とする。例えそれがテレビがつくり上げた虚像であっても。

 裏返すなら、何もしなければ、注目されることはない。例え殺人という否定的なケースであっても、また殺害者自身が意図しない活躍として発生した事件であっても、誰でもできるわけではない特定の行為であるゆえに倒錯的にではあるが、大いなる活躍行為の一つに入れることができ、否応もなしにマスコミからも世間からも注目を受ける活躍主体として扱われることになる。その結果、実像とは違う残忍無比といった虚像までテレビがつくり出し、世論が疑わずにそうと信じ込む場合も生じる。

 一般的には殺人を犯して世間から注目されたいと考える人間はいないだろうが、時には注目されるために殺人を犯す人間がいる。そういった人間にとっては殺人は活躍行為そのものであろし、殺人を犯す自己を大いなる活躍主体と受け止めているに違いない。自分から進んで自分を殺人に関わる活躍主体としなければ、当初の目的を果たせなくなるからだ。

 「中東の笛」をマスコミが一斉に取り上げ、世間の注目が注がれた時点で日本のハンドボールチームは世間の目には活躍主体として映るに至った。その延長線上にハンドボールという競技を知らない人間までもが熱心に代々木体育館に駆けつけるシーンが生じたはずである。

 マスコミが騒ぎ世間の注目を集めるに至った活躍主体に一斉に駆けつけること自体が駆けつける者にとっては活躍行為であろう。駆けつけること自体もそうだし、その多くが俄かサポーターとなって「ジャパンブルー」のユニフォームに誰も彼ものように身を包んで観客席から体育館を揺るがす程の「地鳴りのような声援」を送ることも自己を活躍主体とした活躍行為でなければできない芸当である。

 すべてはマスコミの過剰な報道をキッカケとして突如出現した他の活躍主体に活躍主体となった自己を添わせ、自己自身の活躍行為とする。そうだからこそ、前例がないにも関わらずたった6名でしかなかったが、徹夜を張ってまで観客の一人となる活躍を目指したのであり、二十歳前後の若い女の子が「テレビを見て、カッコいいなと思って・・・」わざわざ直接観戦に来る活躍を演じたのだろう。

 このように他の活躍主体の活躍行為に添わせて自己を活躍主体に高め、自己を活躍させる構図――自己自身の能力発揮を一次的動機として自らを活躍主体に高め活躍する構造のものではない構図――は社会心理学で言うところの他者の栄光を借りた活躍で自己を輝かせようとする「栄光欲」のメカニズムを取った行動反応であろう。

 「栄光欲」の心理は往々にして自己自身に特有の活躍能力を持たない者が陥る。例え長年野球ファンであったとしても、中年のオバサンまでがハンカチ王子としてマスコミが騒ぎ、世間が騒ぐ早実、そして早大と籍を置いてきた斎藤佑樹投手にそこまでベッタリでなくていいと思うのだが、マスコミのマイクを向けられて「大好き。試合は全部観戦している」とか、「私の青春、私の息子」だと高揚感も露にするのは、他者の力を借りたものではない自分自身の力を用いた活躍で高揚感を手にすることができないことの代償行為としてあるハンカチ王子という他者の活躍を利用した自己活躍であろう。世間の注目に便乗して自己をその注目対象の一部とする。そのような活躍を以て自らの人生の記念碑とする。そのような活躍を価値ある自己実現の方便とする。

 当然のこととしてマスコミのインタビューを受けようものなら、前記ハンカチ王子ファンのオバサンの様に大袈裟に熱狂的ファンであることを訴える。ハンドボールの徹夜組6人も徹夜までする熱いファンを演じることで自己自身を活躍主体とし、注目対象の一部としたかったからだろう。マスコミのインタビューを受けて、それを果たしたわけである。

 今朝(2月1日)のNHKテレビニュースでプロ野球が一斉にキャンプインしたことを告げていたが、楽天ゴールデンイーグルスがキャンプ地の久米島入りしたとき、背伸びして人垣の間からデジカメを構え、自分のカメラの方に向かせようとしたのだろう、「マー君、マー君」と声を上げていた結構年のいったオバサンを映し出していた。そのときの出来事は家族だけではなく、知人にまで会うごとに熱く物語られることになるだろうし、写真が上手に撮れていたなら、自慢の種とし、うまく撮れていなければ、大袈裟に残念がって活躍次元で扱われるに違いない。

 日常では得られない、非日常の活躍の瞬間であったのだ。そしてそのときの活躍行為は彼女の人生に於ける輝かしい記念碑に位置づけられることとなる。

 2005年(平成17年)9月11日の郵政選挙でも同じ光景を見ることができた。選挙応援中の選挙カーの上でマイクを握り、熱弁を振るっている小泉首相にとても選挙権があるとは思えない女子高生の制服を着たギャルたちが「純ちゃん、純ちゃん」と黄色い声を張り上げながら携帯のカメラを向けたり、飛び上がるようにして手を振ったりしていた。

 マスコミがテレビカメラを向けて撮影した中に自分たちが入っていたことは自己活躍の価値を高め、それ相応に人生の金字塔として友達に語り継いだに違いない。「どこそこで選挙演説するって言うから、行ってみた。純ちゃん、カッコーよかった。思わずシビレて純ちゃん、純ちゃんて声を上げちゃった。バカみたいだったけど、あたしたちをテレビが撮影していたから、友達ちんちへ行って、ビデオ、セットしておいた。ニュースのとき流すはずだよ」と自己活躍があってこそ獲得できる有意義な時間だったかを告げる。

 既に何日か前のブログに書いたが、大阪府知事選で当選した橋下徹が徒歩で選挙遊説中に成人式に出席する前か、出席した後か和服姿の女性の一団に手をあげて近づくと、彼女たちの方からも手を前に差し出して声を上げ小走りに近寄ってきたが、マイクを握っていない方の手で一人ひとり順番に握手するとき、争うように手を差し出したものの順番が回ってこなくてまだ握手して貰えない女性の殆どが握手が待ち切れないといったふうにその場で足をバタバタさせていた。

 あの瞬間は彼女たちの日常では得られない、得られないからこそ大仰な振舞いとなった活躍の瞬間であったに違いない。自己の記念すべき活躍譚として後日まで語り継がれることとなる活躍行為。成人式で和服に装い、歩き回ること自体が活躍行為そのものであったろう。

 橋下がテレビで活躍していた「有名人」でなければ、大衆の注目はああまで集めなかっただろうし、例え選挙中に握手を求められて応じたとしても、記念すべき自己活躍とはならなかったはずだ。相手がテレビ有名人であり、マスコミや世間の注目を集めて騒がれている人間であればある程にその人物に便乗した自己の活躍度は増す。握手を待ち切れなくて足をバタバタさせたのは活躍主体が橋下ではなく、自分たち自身だったからだろう。そうでなければ、橋下以上に目立つことはできないはずだし、目立とうとはしなかったはずである。

 きっと若者の多くは、俺は、私は橋下弁護士に1票入れたと、1票入れたことの活躍を人に自慢げに話し、自らの活躍を誇っただろう。

 橋下は票と引き換えに大衆に、特に男女若者層に栄光欲を動機とした活躍の機会を与えたのだ。気づいていたかどうかは不明だが、自分に向けられているマスコミや世間の注目に便乗させて彼らを活躍主体に高めてやった。彼らの栄光欲を誘発できた要因は断るまでもなくテレビの力を借りてつくり上げた人気であり、知名度という名の世間の注目である。

 今どきの若い者はアメリカの首都がどこにあるか知らないものが多い。テレビでやっていたことだが、ロシアの領土の一点を指して、この辺かしらと当てずっぽうに言っていた若い女の子がいた。私自身は生きる力さえ持つことができたなら、アメリカの首都がどこにあろうが、そのような無知は問題にしないが、政治家の多くが問題にして基礎知識の必要性を口にしていた。彼女たちは大阪が多くの借金を抱えていることは知っていても、具体的なことは知らないに違いない。財政再建団体というものがどのような団体なのか詳しく知っているだろうか。若者の多くが橋下徹が与えてくれた一時の、だが他ではなかなか得難い栄光欲によって誘発されることとなった人生の記念碑ともなる活躍行為のお返しに1票を投じたに違いない。

 その証拠として示すことができる記事がある。JANJANの1月29日(08年)の記事≪大阪府新知事選、橋下徹氏に垣間見えた“ポピュリズム”の芽≫だが、<選挙期間中の1月12日、大阪市内でも若者が多数行き交う北区梅田の富国生命ビル前での演説は若者層の心を強く揺さぶるような演説だった。「みなさんのことを君たちと言ってしまうかもしれない」。そう切り出した演説では「歴史を変えるのは君たち」「歴史が変わる立会人になろう」などと繰り返し、新知事誕生に歴史的な意味合いを持たせた。そして「もう僕らの世代なんです」と絶叫すると若者たちの中には手を突き上げて「ウォー」というような声を発する人がいた。>・・・・・

 なかなかのアジテーションである。「歴史を変える」かもしれない活躍行為を約束したのである。そのときの若者たちの高揚感は橋下という活躍主体のテレビや世間から与えられた注目がつくり出す活躍行為の総体に若者たちが栄光欲を通してつながり合えた活躍行為が発した感情の高まりであり、それはアジテーター・ヒトラーの華々しい活躍行為と結びつけることで手に入れることができたヒトラーユーゲントの活躍行為に対応する栄光欲からの高揚感になぞらえることができるはずである。

 いわば橋下徹の訴えた改革だ何だといった政策が大勢を決めた当選ではなく、ハンドボールやり直し戦で見せた若者たちの栄光欲を発信源とした仮構の活躍行為が熱烈なサポーターシーンとなって現れたように、橋下のテレビ知名度が刺激した大阪の若者たちの栄光欲を媒介とした活躍行為が方向を決した当選ではなかったかということである。

 1月28日(08年)の「asahi.com」記事≪橋下氏、無党派層の半数獲得 若者票も集める≫の中で特に冒頭部分で言っている<初当選した橋下徹氏=自民府連推薦、公明府本部支持=は、無党派層で50%の支持を得たほか、女性から6割近い支持を集めたことが分かった。>がこれまでの推論の傍証足り得ないだろう。

 参考までに引用。<朝日新聞社が27日の大阪府知事選で、投票者を対象に行った出口調査によると、初当選した橋下徹氏=自民府連推薦、公明府本部支持=は、無党派層で50%の支持を得たほか、女性から6割近い支持を集めたことが分かった。
 調査は府内90箇所で実施し、4513人から有効回答を得た。政党支持率は、自民が29%、民主が25%と続き、公明が9%、共産が8%だった。
 自民が大敗した昨年7月の参院選大阪選挙区で、出口調査の各党支持率は自民が28%、民主22%、公明10%、共産9%で、無党派層は22%。今回の選挙で政党支持にほとんど変化がなかった。
 今回、投票者全体の25%を占める無党派層では、橋下氏は半数の支持を集め、29%と伸び悩んだ熊谷氏を大きく引き離した。共産党などが推す梅田章二氏は19%だった。
 支持政党ごとの投票先を見ると、自民支持層は81%が橋下氏に投票したのに対し、民主支持層は熊谷氏に70%しか投票しておらず、橋下氏に22%が投票、梅田氏にも8%が流れていた。支援を受けた社民支持層でも48%と半数を割った。橋下氏は、支援を受けた公明の支持層でも96%を固め、梅田氏も共産支持層の81%をまとめた。
 投票の際に重視したのは「候補者個人の魅力」が39%と最も多く、「主張する政策」で選んだ36%を上回り、今回は政党や政策より個人が前面に出る選挙となった。
 「魅力」で選んだ層では橋下氏への投票が72%と突出。21%にとどまった熊谷氏に大差をつけた。「政策」で選んだ層では、橋下氏が37%、熊谷氏が36%と競り合い、梅田氏も26%だった。
 男女別でみると、橋下氏は女性の好感度が高く、57%が橋下氏に投票したと回答、熊谷氏に倍以上の差をつけた。年代別でも、橋下氏はすべての年代でトップで、30代で6割を超え、60台を除く年齢層で5割以上を占めた。熊谷氏が橋下氏を上回ったのは、60代の男性だけだった。
 一方、「8年間の太田府政を評価するか」との質問では、「ある程度評価する」が38%と最も多かったが、「大いに評価する」はわずか3%。逆に「あまり評価しない」(37%)と「全く評価しない」(20%)を合わせると「評価しない」層は過半数を超えた。>・・・

 <投票の際に重視した><「候補者個人の魅力」>にしても<「主張する政策」>にしても、テレビがつくり上げ世間に「注目」させるに至った人物像(=キャラクター)への期待感に軸足を置いた反映値でもあろう。その正体がどう転ぶかは今のところ未知数でしかない。

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