道路特定財源一般財源化は日本の緩んだ政治・緩んだ官僚体制を目覚めさせる電気ショック

2008-02-16 10:02:42 | Weblog

 【ゆるふん】(緩褌)
 「①ふんどしの締め方のゆるいこと。特に、相撲でまわしの締め方のゆるいこと。また、そのようなまわし②(転じて)心構えのいい加減なこと。気持ちのたるんでいること。また、その人」(『大辞林』三省堂)

 そのまんま東東国原宮崎県知事が宮崎県内の市町村や経済団体およそ1000人が参加した「暫定税率廃止に断固反対」の総決起大会(15日)に出席して次のように話していた。

 「ガソリンを25円下げることの経済効果を野党さんはあまりおっしゃっていない。野党さんは道路ができてもお医者さんがいなければ何もならないとおっしゃいますが、お医者さんのいる遠い所からいない所へ運ぶために道路は必要なんですよ」

 非常にもっともらしく聞こえる。こういうのをポピュリズムと言うのだろう。大衆に受入れやすい論理だからだ。地方の病院から医者が消え、都市の大病院に集中するのは道路のあるなしが原因ではない。産婦人科医の極端な減少にしても、減少自体に関して道路はどのような解決策となるのだろうか。東国原の論理を正当化するには道路さえできれば、病院は大都市に集中していてもいいということにしなければならない。

 また医師だけではなく、看護師も給与の高い都市部へ流れる大都市・大病院集中現象が起きていて、インドネシアやフィリッピンから看護師を受入れざるを得ない状況になっている。看護師不足の地方の病院の要請に応じて訪日したとしても、彼女たちが日本に来て2、3年したら、より給与の高い都市部の大きな病院へ移らない保証はない。移るについては立派な道路は時間の短縮を保証するに違いない。

 医者・看護師が不足しているからと地方病院の治療を断られた患者が救急車に乗せられ高速道路を通って都市の立派な病院に移送され、病室に運ばれて最初に見た医者と看護師が地方病院を仕事の過酷さと給与の安さに嫌気が差してやめていった医者であり、フィリッピンからかインドネシアから来た看護師だったなんてことになったなら、滑稽な出来事となるだけではなく、立派な道路は医師不足・看護師不足には何の役にも立たず、移送の役割しか担わないことになる。

 06年8月に助産師の資格のない看護師らに助産行為をさせていた疑いで書類送検された堀病院の堀健一院長(79)と看護師ら11人が07年2月に起訴猶予処分となったが、その理由は無資格助産行為は個人病院の多くで行われていて、起訴した場合、産婦人科医療現場に混乱が起きると見たということらしいから、現状追認の黙認ということなのだろう。

 「らしい」と言うのは、資格を必要とする職務にはっきりと「無資格でも認めます」とは言えないからからだ。

 助産師は<国は『総数は足りている』としているが、実際は助産師が公的病院に集中し、個人経営の産院には不足している“偏在”が問題になっている。
 病院と個人経営の産院で扱う分娩(ぶんべん)総数はほぼ同数だが、産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」>(06.8.24.「読売」『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発」一部引用)という公的病院一局集中状況にしても道路に無関係の事柄で、これは給与の関係だけではなく、日本人が都市は上、地方は下、大学病院等の大病院は上、個人病院は下と見る権威主義が招いている「上志向」現象なのだろう。

 ここから東京一極集中が発生している。日本がバブル期だった頃、地方都市の銀行がニューヨークに支店を構えたいとニューヨークのコンサルタント会社に依頼した。コンサルタント会社はニューヨークから離れた日本人が名も知らない街の銀行を「高い利益が望める」と紹介したところ、日本の銀行はニューヨークの銀行でなければならないという。「ニューヨークは買収額も高く、競争も激しいから、買収できたとしても多くの利益は望めないかもしれない」と言っても、「それでもニューヨークでなければならない」と言う。

 ニューヨークに拘った理由は日本の銀行が顧客に自慢し、宣伝するには日本人の誰もがその地名を知っているニューヨークという街でなければならなかったからだ。日本に於いては東京がそうであるように、アメリカに於いてはニューヨークこそが最上のステータスシンボルとなり得る。

 紹介したのがニューヨークにある銀行であっても、地名の次に建物の見栄えを問題にしたに違いない。銀行の建物の写真をパネルにして本店からすべての支店に自己銀行の価値づけに吊り下げるだろうから、顧客に「本行はニューヨークに支店を開きました」と宣伝するためにはどうしても建物の見栄えも必要になる。そのためには将来見込める利益を少しぐらい犠牲にするに違いない。

 顧客にしても、「へーえ、ニューヨークにですか?」と名前を聞いただけで感心するのは目に見えている。「この人は東大出です」と言われただけで、立派な人だと思い込んで、へーえと感心するように。

 そのようにも日本人は職業にして大学にしても都市にしても、何事も上下でランクづける権威主義に侵されている。東国原が言うように「お医者さんのいる遠い所からいない所へ運ぶために道路は必要」ということだけでは済まない。様々に問題を抱えた地方にある病院の外来科の閉鎖であったり、産科の閉鎖であったり、医者や看護師の減少であったり、最悪倒産であったりするからだ。

 「ガソリンを25円下げることの経済効果を野党さんはあまり言っていない」と言うが、原油高騰のあおりを受けて既に多くの物価が値上がりしているところへもってきて、農水省は国際価格の高騰に伴う措置だとして輸入小麦の製粉会社への政府売り渡し価格を4月から30%引き上げると言っている。当然、パンからインスタントラーメン、うどん等影響を受けないことはあるまい。車で長い距離を走る一般生活者にとっては40リットル入れて1000円浮く計算は生活の助けとなる金額となるだろう。

 暫定税率廃止なら軽油も17円程度下がるということだから、原油高騰による軽油の値上がり分ぐらいは諸物価へのはね返りを防げるのではないだろうか。例えばインスタントラーメンを例に取ると、先頃既に一度値上げしているということだが、4月から小麦が30%値上がりした上に軽油の値段も下がらず、値上がりしたままなら、その分も運送コストとしてインスタントラーメン価格に上乗せしなければならなくなる。暫定税率廃止がそれを少しでも和らげる便宜となることは間違いない。

 そういった経済効果は運送業界や食品業界だけではなく、遣り繰り算段で生活を凌いでる一般生活者にとっては決して無視できないカンフル剤となるだろう。製品を集積するセンターにしても荷物の出荷・入荷は燃料がガソリンであったり軽油であったり、電気だったりするフォークリストを使う。

 確かに地方にとっては道路は欲しいに違いない。だが、道路建設以上に問題としなければならないのは予算運営上のムダ遣い体質ではないだろうか。ムダ遣い体質は歴史となり、文化・伝統とまでなっている。今になって電柱の地中化も必要だ、開かずの踏み切り対策も必要だ、歩行者を守るためにガードレール設置も必要だともっともらしいことを言っているが、これまで自民党政治がそれらすべてを放置してきたからある現状でしかない。

 水道管を埋設すると言っては道路を掘り起こし、埋設後アスファルトを新しく舗装する。ひどいときは数ヶ月も経たないうちに今度はガス管の埋設だと同じ道路を掘り起こして、工事後再び新たにアスファルトを舗装する。そういった繰返しを何の考えもなく何十年となく続けてきた。これ程のムダ遣いがあるだろうか。

 また年度末が近づくと、予算が残ったからと予算を使い切る体質もムダ遣いの一つであろう。それが日本全国津々浦々慣習化している。いわば当たり前となっている。政治家も官僚も地方役人も緩んでいるとしか言えない。緩んでいるから、当たり前て過ごすことができる。

 国土交通省の職員の慰安を目的に道路特定財源でアロマセラピー器具を購入したり、その他健康器具を購入したりしているのもムダ遣いでしかないが、精神が緩み切っているからこそできる財源の流用であろう。

 あるいは銀行が利益の観点からではなく、あの銀行は凄い、立派だと見せたい権威主義的なステータスシンボル志向からニューヨークに支店を欲するのと同じ線上の、政治家・官僚が自分を大きく見せたいばっかりにこれだけの道路を造ったと誇る目的の過剰な道路設計、それを正当化するための根拠のない過剰な予測通行量、結果としての財政状態を無視した予算の支出といった背伸び政治・背伸び行政を日本は道路行政の歴史とし、文化とし、伝統としてきた。そのような歴史と文化と伝統を受け継いで、今以て同じ類の道路行政を行っている。

 緩み切っていなければ踏襲できない歴史・文化・伝統である。緩み切っているからこそ、方向転換ができないでいる。

 このような方向の道路建設に目を奪われて歩行者保護のガードレール設置や電柱の地中化、開かずの踏み切り対策に目が届かず放置してきただけのことで、自分たちの失政・不始末を隠してガードレール設置等が必要だから道路特定財源の一般財源化には賛成できないなどという。自己都合もいいとこである。精神が緩んでいてバランスを取った地域発展の政策を行うことができなかっただけの話である。

 緩んでいるという点では社会保険庁の年金業務職員と何ら変わらない自民党政治家であり、日本の官僚と言える。

 道路行政にバランスを欠くことになった原因は日本人がやはり一極集中型の権威主義に囚われているからだろう。高速道を造れとなると、その一点・一極にだけ目を注ぐ。これは日本人はテーマを与えると力を発揮すると言われていることに合致する一点集中主義・一極集中主義である。道路建設を絶対だと把えてしまうために他に目がいかず、バランスを欠くことになる。「絶対」とすると言うことは最上位の価値に置くということで、ガードレール設置とかの他の建設を下の価値に位置づけることとなって、物事を上下に価値づける場面展開に添うことにもなり、自分たちの権威主義的価値観を満足させることができる。

 権威主義は物事を上下に価値づけて上に価値づけた事柄に最重点に従うことから上下間のバランスを欠くことになるのだが、そのことは同時に思考のバランスを欠くことを意味する。

 東大出の人間を立派だと価値づけて、三流大学出の人間をたいしたことのない人間だとすることは既にその時点で思考のバランスを欠いていることを示しているだけではなく、思考のバランスを欠いているからこそ、そのように価値づけることができる人間のランク付けである。

 外国から日本人には戦術はあっても戦略はないと言われるのも、思考能力の欠如(=思考バランスの欠如)を物語るエピソードであろう。危機管理能力欠如も思考能力欠如(=思考バランスの欠如)の反映としてあることの根拠とし得る。

 OECDの「学習到達度調査」(PISA)以前にも指摘されていたことだが、その調査によって改めて日本の生徒の基礎学力はそれ相応にあるが、思考能力に欠けるという結果が出て、文科省や教育界に衝撃を与えた。だが、子供は大人のヒナ型である。大人の思考・文化を吸って、そのヒナ型として子供は存在する。

 とすると、子供の思考能力の欠如は大人の思考能力の欠如を受けたその反映と見なければならない。日本人が権威主義に侵されていることで既に思考のバランスを欠いている。大人たちのヒナ型に過ぎない子供たちが柔軟な思考能力を欠いていたとして不思議はない。

 大人たちが思考能力のバランスを欠いていて、子供たちの思考能力が十分なまでに発達していたら、逆に恐ろしいことになる。

 例え地方ではまだまだ道路が必要だとしても、立派な物を造って誇りたいだけのムダを無視した、これまで歴史とし文化とし伝統としてきた日本の道路行政を一旦打ち切るためにも道路特定財源の一般財源化は打ち切る電気ショックとしての効果は保証できる。

 そのような電気ショックは自民党政治家、同じ穴のムジナである日本の官僚の緩みに緩んだ精神をもショックを与えないでは済まないだろう。いやでも考えた道路建設を行わなければならないからだ。精神が緩んでなどいられない。褌のヒモをきりっと締めてこそ、正しい姿勢でいられる。

 地方はまだまだ道路は必要であると言う声に負けて道路特定財源を維持したなら、道路建設を最上位の価値に置いて絶対とする日本の道路行政の歴史と文化・伝統は緩んだ精神と共に延々と生き延びるに違いない。何と言っても自民党政治家と日本の官僚の既得権確保の欲求は緩んだ褌どころか、アメリカ映画の殺しても殺しても生き返るエイリアン以上にしつこく強いものがあるのだから、一般財源化の電気ショック療法以外に手放させる方法はあるまい。

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