イージス艦に見る「たるんでいる」任務内規律と危機管理欠如は今に始まったことではない日本全体の問題
米兵沖縄14歳少女暴行事件以後も多発する米兵事件に我が日本の偉大なる町村信孝内閣官房長官は記者会見で、「17日には酒酔い運転。誠に遺憾千万で、たるんでるとしか言いようがない」と米軍の規律の緩みを厳しく非難する言葉を言い放った。
そして2月19日午前4時7分のイージス艦「あたご」の漁船「清徳丸」との衝突事故。場所を選ばずの渡り鳥・小池百合子元防衛相は「たるんでいるのひと言」(08.2.21/日刊スポーツ≪2分前から一転、漁船確認12分前だった≫)と批判。
清徳丸が所属する漁協の組合長「ミサイルを瞬時で打ち落とせるような優秀な船が、なんで漁船に気づかなかったのか。自衛隊には、たるんでる、と文句をいいたい」(文藝春秋編 ≪日本の論点PLUS≫から)
陸海空自衛隊の最高司令官、わが偉大なる内閣総理大臣福田康夫の「福田内閣メールマガジン」で記した言葉((08.2.21『朝日』夕刊≪首相「緊張感が欠如」≫から)。
「これだけの重大事について連絡が遅れたことは、危機管理意識が欠如していたと言わざるを得ない」
「国民の生命財産を守るべき自衛隊が、このような事態に至った事が悔やまれてならない」
「緊急事態に常に備えるべき自衛隊の艦船が漁船と衝突すると言う事態は、やはり緊張感が欠けていたとのそしりを免れなり」
「危機管理意識が欠如」を簡易語に翻訳すると、断るまでもなく「たるんでる」になる。緊張感を欠くことで「危機管理意識が欠如」した組織=「たるんでる」組織のまま放置していた責任は誰が負うのだろうか。陸海空自衛隊の直接の管理・監督者である我が石破防衛大臣の責任は重大だが、そのことを以ってして石破を防衛大臣に任命した福田総理大臣の任命責任は免れるわけではない。
我が石破防衛大臣は特に危機管理に熱心だった。軍需商社山田洋行から収賄に当たるゴルフ接待を受けて逮捕された防衛省事務方の長である守屋前防衛事務次官が連絡がつかない状態で接待ゴルフ等で遠隔地に出かけていたことの反省から、石破防衛相は「危機管理官庁なので居場所を明らかにするのは当たり前。行動が把握されるのが嫌だったら、そんな人は防衛省にいなくていい」と幹部の休日行動を把握する目的で全地球測位システム(GPS)機能付き携帯電話の所持を義務づける方針を示していた。その「危機管理官庁」そのものが「危機管理」を破綻させる衝突事故を起こしたばかりか連絡遅滞・報告不備の危機管理欠如を曝した。我が石破防衛大臣の「危機管理」とは何だったのか。
防衛省ばかりではない。去年暮れから今年にかけての中国農薬餃子問題でも各方面に亘って「緊張感を欠いて」いたとしか言いようのない危機管理の欠如を露呈した。救急病院から移送された患者の病状を食中毒と把握していながら、市立病院の医師は食品衛生法に基づく保健所への届け出を怠っているし、地域住民の健康や衛生を支える公的機関の保健所が消費者が持ち込んだ餃子の検査を断っている。万が一の危険を想定してそのことに備えることも「危機管理」である。それが国民の生命・財産の保護につながっていく。そういった認識すら持たない緊張感のなさなのだろう。
東京都も餃子中毒を起こした兵庫県から連絡を受けながら、中国餃子輸入元のJTF本社がある品川区に伝えて調査を要請する際、農薬中毒症状を記載した書類ページを誤ってファクスし忘れ、先方に農薬中毒だと認識させる機会を自ら断つ危機管理欠如を犯している。
昨年12月の佐世保で発生した2人殺害の銃乱射事件では長崎県警は近隣住民が警察に銃の所持許可を取り消してほしいと申請しながら、適切に対応せず、「銃所持許可は適切だった」とする危機管理欠如を曝している。近隣住民が不安に感じ、心配したとおりに現実に銃の不法使用が起き、2人の人間が殺害されたのである。結果から自分たちの判断の当否を問うべきを事務手続き当時の判断を基準に当否を問う責任回避は危機管理を無視する緊張感も何もない態度以外の何ものでもない。
02年7月に宇都宮で主婦1人を殺害し、もう一人の主婦に重傷を負わせた散弾銃殺傷事件は事件後自殺した犯人の62歳の男が銃許可を申請した際、その身辺調査に当たった当時の宇都宮南署地域課員が「許可には熟慮を要する」と報告し、主婦側も男とのトラブルを警察に訴えていたにも関わらず、警察は銃所持を許可し、結果として事件が発生した。
この経緯は佐世保銃乱射事件の経緯と重なるばかりではなく、遺族の損害賠償の訴えに宇都宮地地裁は事件は予測できた、県警の銃許可は違法と判断したのは佐世保銃乱射事件を遡ることたった半年前の5月24日(07年)のことである。
佐世保銃乱射事件の犯人に対する近隣住民の苦情が記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのか、宇都宮の事件の銃所持許可を違法とする宇都宮地裁の判決を教訓とすることもできなかった「危機管理意識の欠如」、学習することもできなかった「緊張感の欠如」はまさしく「たるんでる」としか言いようがない。
佐世保事件の場合は05年4月に近隣住民の苦情を受けた後、容疑者に電話で取り外し可能で銃を使用できなくする銃の「先台」を預けるよう求め、本人の「預けます」という承諾を受けていながら、実際には預けさせるところまで持っていかなかった機管理欠如は近隣住民の苦情の確認に直接本人に面談するのではなく、それを省いて銃所持許可更新時の添付書類である医師診断書を判断の主たる根拠としたことと先台の提出を電話で応対したことの「時間と手間の面倒」を避けたことが原因となった危機管理の破綻であろう。
何もかも「緊張感の欠如」、「危機管理意識の欠如」つまり「たるんでる」ことから起きた危機管理の破綻なのだ。
この教訓機能の欠如・学習の無化の構図は既にマスコミが伝えているようにイージス艦「あたご」の衝突についても言える。88年7月に海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が大型釣り船第1富士丸に衝突、30人を犠牲とし重軽傷者を17名出した事故である。長男を29歳で失った遺族の88歳の父親は「あたごの事故は完全に『避けられた事故』だったと思う。自衛隊は綱紀がたるんでいるんじゃないか。同じような事故が再び繰り返されないという保証はない」と話している。(08.2.21/ asahi.com ≪あたご遺族「またか」 事故後20年、怒りあらわ≫から)
そう、「綱紀がたるんでいるんじゃないか」と町村信孝内閣官房長官と同じ「たるんでる」という言葉を使っている。町村の「たるんでる」は沖縄米軍に向けた言葉。遺族の「たるんでいるんじゃないか」は町村信孝も所属員の一人となっている日本政府管轄下の自衛隊に向けた言葉。いわば町村も受け止めなければならない遺族の「たるんでいるんじゃんないか」である。
場所を選ばずの渡り鳥・小池百合子にしても、町村よりも近い形で防衛省に短い期間とは言え、一時は直接的に所属していたのである、第三者批判的に「たるんでいるのひと言」と言い捨てるだけでは済むまい。
もし町村、その他福田内閣の面々が「なだしお」衝突事故遺族の言葉を海上自衛隊のみに向けたものだと受け止めたとしたら、責任の所在を防衛省と自衛隊のみに負わせるもので、「緊張感に欠けている」としか言いようがない。内閣全体が受け止めなければならない責任であり、「危機管理意識の欠如」であろう。
海難審判所は「第一富士丸」の接近してからの左転に問題があったとしながら、「なだしお側」の回避の遅れを事故の主原因としている(Wikipedia)。当然の後付として防衛庁および自衛隊は「再発防止」を唱えたが、学習効果もなく「あたご」は教訓とすることができなかった。「たるんで」いたからであり、「再発防止」の危機管理意識が当座だけの維持だったことを証明している。
危機管理に関してさらに言うなら、1995年の阪神大震災、1997年のロシアのタンカー・ナホトカ丸の重油流出事故、1999年の北朝鮮偽装工作船領海侵犯事件、2001年3月のえひめ丸の米原潜衝突沈没事件、同年5月の金正男不法入国事件、児童に対する大人の虐待を把握していながら、面談の面倒を省いた電話対応等で児童を死に至らしめてしまう何年も続く跡を絶たない児童相談所の無策等々、日本の「危機管理の欠如」を挙げたらキリがない。
昨07年の1年間で「虐待を受けた児童が死亡したケースは35件」(08.2.21/MSN産経≪児童虐待と児童ポルノ被害児童、統計開始後で最悪≫から)だという。このうち何人の死に児童相談所等の「危機管理欠如」が関わったことだろうか。
まだ1週間しか経っていない2月16日に大阪府寝屋川市で起きた21歳の同居男の6歳女児に対する虐待死も児童相談所が女児の顔にアザがあるのを把握していて虐待を疑いながら、保護しなかった結果の危機管理の欠如・危機管理の破綻が原因した事件である。
「危機管理」とは国民の生命・財産を守るために常に最悪の事態を想定してその回避に向けて対処すべく行動することであろう。児童虐待に関して言うなら、想定すべき「最悪の事態」とは虐待死以外にあるだろうか。その回避に備えて行動しながら、虐待死を許してしまう逆説は児童相談所の存在そのものが意味を成さないことを示す。危機管理意識もなくそのことに備えて行動していないとしたら、例え児童相談所の存在に意味はなくても、形式的には存在させ得る。単なるハコモノとして。そういった相談所が多いということなのだろう。中国餃子で保健所がそうであったように。
以上挙げてきた「危機管理意識欠如」事例は「任務外規律」のたるみから生じた米軍の犯罪を除いてすべて「任務内規律」のたるみからの事例である。勿論「任務外規律」のたるみからの犯罪だからと言って、米軍当局の責任が免責されるわけではない。問題としたいのは自衛隊や警察といった組織での下部組織と上部組織共々が緊張感の「たるみ」=「危機管理意識欠如」を共有していたとしても、上部組織の下部組織に対する管理・監督の作用は何らかの形で機能しているはずの場所で「任務内規律」のたるみが生じるということである。米軍当局の直接・間接の目が届かないプライベートな時間・空間での米兵の14歳少女暴行とは訳が違う。イージス艦「あたご」の場合は航行中の艦船という上部組織による下部組織に対する管理・監督の目が直接・間接に届く場所での「任務内規律」のたるみ、危機管理意識の欠如であることを重視しなければならない。
目の届く「任務内規律」に関しては直接にも間接にも監視可能の状態にあるから、もし上部組織による下部組織に対する管理・監督の作用が何も機能していないとなったなら、上部組織は存在していても存在していないが如しの無能集団に堕す。
このような上と下との関係からすると、当然のこと「たるんでる」緊張感=危機管理意識の欠如は下部組織から上部組織に伝染するのではなく、多くは水の流れと同じで上部組織から下部組織に浸透していくか同時進行の形で起こる。
ではなぜ上部組織の下部組織に対する管理・監督の作用が何らかの形で機能していながら、緊張感を欠き危機管理意識を欠如させた「たるんでる」組織行動が起こるのだろうか。「任務内規律」のたるみが発生するのだろうか。
「規律」は上からの指示・命令をなぞって従うだけでは単なる機械的な反復行動で終わる。そのような経緯の「規律」を有効な状態に保つためには常に上からの指示・命令を必要としなければならなくなる。当然のことで例え「任務内規律」であっても、直接的な上からの指示・命令から離れた場所ではなぞって従う基準を失って、指示・命令にズレた行動が生じる。
指示・命令に機械的になぞり従うのではなく、そこに自分の判断を介在させることによって、「規律」は機械的反復行動であることを免れて主体的行動に高めることができる。当然直接的な上からの指示・命令から離れた場所であっても、自分の判断で「規律」に添った行動を取ることができることになる。
「自分の判断」とは自分で考えることを言う。自分の意志・判断を出発点として自らの責任に於いて行動する主体性へと進化していく。それが主体的な「規律」行動となったとき、上からの指示・命令から離れた場所であっても少なくとも「任務内規律」は適切に機能し続けることになる。
イージス艦「あたご」の見張り員が漁船の灯火群を確認していながら双方の進路との関係を把握することを怠ったこと、例え緊急性を感じなくても当直仕官やレーダー担当部局に一応の連絡をすべきを、「万が一の危険性」を省いたこと、緊急の融通性を欠く自動操縦を続けたことは命令・指示によってではなく、そこから離れて自分で判断を下さなければならない場所で適切な行動(=判断)を取れなかった主体性(自分の意志・判断を拠り所として自ら責任を持って行動する姿勢)の不在を示すもので、「主体性」の不在が原因した「任務内規律」のたるみであろう。
上の命令・指示のある場所ではそれが求める行動を忠実に実演できるが、例え任務内であっても命令・指示のない場所では命令・指示に添った行動をよりよく取りえない状況は下の者の行動が命令・指示に対する機械的な対応(なぞり・従属)で終わっていることの証明であり、この構図は判断のプロセスを欠くことによって成り立たすことができる上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の行動性から出ていると言わざるを得ない。
「任務外規律」のたるみと「任務内規律」のたるみを比較した場合、前者の病弊の方が悪質なのは言を俟たない。その悪質さは学校教師が放課後の校外ではなく、勤務時間内の教室内で生徒に対して働いたワイセツ行為の「規律」が「規律」として生きていない状況になぞらえることができる。
とすると、様々な場面で演じられている日本の「危機管理意識の欠如」は根深いものがあると言わざるをえない。