一筋縄でいかない天下り問題/天本直人氏のブログを読んで

2008-02-08 03:52:22 | Weblog

 天本氏のブログ記事≪誰も言わない事を言うことの勇気≫は、「民から民への天下り」経験者が感じたその弊害と子会社の活性化のためにその是正の必要性を説いた新聞の投書記事を取り上げたものである。

 『朝日』を購読しているが、その記事に気がつかなかった。私自身が「民民」天下りに関して抱いている事柄を少し述べたいと思う。

 最初は自身の人生経験からの考察。1990年代半ばの4年間ほど名前は言えないが、「世界の日立」と言われる(月並みなダジャレ)日本有数の大企業の清水工場でその子会社の期間工として働いていた。年齢は50代前半。

 仕事は業務用エアコンとその室外機の板材を使った梱包作業で、四方の枠と天井と呼んでいた上蓋をエアー式の釘打ち機と金槌の両方で釘を打ちつけていくのだが、背丈よりも高いエアコンがあるから、側面の枠など簡単には持てない重さがあって、なかなかの重労働である。

 子会社の所在地が日立清水工場内にあることからも分かるように「日立」そのものの会社で、社長を始めその他幹部は日立から天下った人間で固められていた。期間工とか女性パートといった採用はすべてその子会社が行い、本体である清水工場そのものは一切タッチしない。梱包その他の業務だけではなく、それ以外に殆どが中高年の出入の激しい臨時職員の雇用と無訓練で働かせる労働に関して起こりかねない面倒を何から何まで引受けていて、本社は手を汚さない、手を汚すことはすべて子会社にやらせていると本社の現場従業員までが噂する、面倒が本社に及ばないよう吸収し、和らげるクッションの役目をも担ってもいた。

 期間工の現場従業員として働いていたから、子会社事務所で天下ってきた者が幹部職を占めていて一般社員が一定以上の昇任が望めない関係にあり、労働意欲を失っている状況にあるのか、あるいはそんなこと「関係ねえ、オッパッピー」で喜々として働いているかは窺い知れなかったが、現場で仕事を指図する係長や組長等もすべて本社の現場従業員の定年退職者で占められていた。

 日本のホワイトカラーの生産性は欧米に劣るが、現場労働者(ブルーカラー)の生産性は欧米のそれと遜色ないと言われている。それは現場上司の自分たちの成績に直接響くことからの監視の目が常に行き届いていることと、ベルトコンベア作業であることから否応もなしに一生懸命働かざるを得ないこと、仕事量が直接数値で出て、厭味や苦情で尻を叩かれるといったことを原因とした生産性の高さに過ぎないだろう。

 一つの仕事にモタモタしてラインを止めることが何回か続くと、ラインから外されて他の仕事に回される。そこでも必要とされる能力を発揮できなかった場合、期間工の場合は次の契約の機会が与えられず、工場から姿を消すことになる。身分が不安定なことと生活がかかっていることから、能力があるなしに関わらず全体的には一番一生懸命に働くのは期間工やパートといった皮肉な現象が起きる。後がない者の一生懸命さである。

 当時バブル崩壊の傷が深まると、期間工やパートのクビを切るだけでは間に合わなくなって子会社社員から希望退職者を募るようになっていたが、そんなことは露知らず依然として学者や文化人といった著名人は新聞やテレビで日本の労働形態は終身雇用で家族的制度だと、それを他国にない日本の優れた労働慣習であるから守るべきだといったようなことを喧伝していたが、遥か以前から不況になれば最初にクビを切る対象に位置づけて雇用調整の安全弁の役目も担わせていた期間工やパートであって、その犠牲の上に成り立たせた正社員に限った限定付きの終身雇用・年功序列の家族的形態であり、そのことに無知であったから言えた日本の優れた労働形態に過ぎない。

 失われた10年も末期に近づくと正社員も人員カットの対象とされるなり振りかまわない終身雇用崩しが展開されたが、日本の優れているとする価値観を見事裏切る皮肉な現象としか言えない。

 問題にしたいのは清水工場本体の定年は60歳だが、人員確保のために子会社に移ると定年は65歳まで延長され、賞与も含めた給与は退職時の水準を確か1年間保証し、それ以降20%ダウンという当時の制度である。

 これは一種の天下り制度であった。なぜなら、そこに鎮座するだけで役に立たない場合でも子会社はクビを切ったりはできず65歳定年を守り、鎮座させるに任せるしかないのは天本氏が取り上げている「民から民への天下り」にも重なる状況だからである。

 天下った定年退職者の1年後にカットされる給与にしても期間工の給与の比ではない点は天下った人間と天下り先の一般従業員との給与格差に似ている。何しろ清水工場本体に20年30年と働いていたのである。それだけの給与保証は当然かもしれないが、それが子会社に移って、全く別種の仕事に取り組まなければならない。小中、もしくは高校まで暗記教育で教育を受け、殆ど一つ現場で同じ仕事をなぞるだけで用を足していたから、ただでさえ柔軟性がないところへ持ってきて年齢も重なって能力そのものにひび割れが生じているといった状態で新しい仕事についていけない。足手纏いになる人間が結構いた。そしてそれでも期間工を遥かに上まわる給与が保証されていた。

 足手纏いの連中は新しい仕事に於ける自らの無能力を補うために「俺は日立に20年いた、30年いた」とそれだけを勲章に自己存在証明の口実とする。言外に「お前ら期間工とは違う」といった蔑みを含んでいた。「日立」という名前を葵の御紋の威光に変えて、そこでの勤続年数を勲章とし、そういったメッキでしかない箔を元手に子会社の現場に君臨しようとする。そのような無能のために犠牲となった期間工がどれ程いたことか。仕事が減り、人手が余ると、メッキたちの終身雇用を保証するために有能・無能関係なしに期間工やパートが先にクビを切られていったのである。

 滑稽なことに6つか7つあったラインのうちの2つのラインは殆どがクビを切られて残り少なくなった期間工が責任者を務めていた。天下ってきた連中がラインの責任者となって満足に梱包の仕事をこなす能力がなかったからである。例えばコンベアに乗ってくる製品が完成する直前に製品名と製品番号が一目で分かるようにそれを大きな文字で書き入れたポスター(選挙用のポスターとほぼ同じ大きさ)を製品の左右と正面に貼り付ける仕事を与えるとする。ラインの途中で欠陥が見つかった製品はその場でフォークリフトで降ろされるから、製品が続き番号でつながって流れてくるとは限らない。製品は完成するまで指示票なる小さな札が取り付けてあって、そこに製品名と製品番号が書き入れてあり、それを確認して同じ番号のポスターを貼るよう教えてあるのだが、クビを切られるまでパートのオバサンが完璧にこなしていた作業であるにも関わらずたびたび間違える。

 よく確認しないからなのだが、日立で20年も30年もしてきた仕事と自分の能力に優越的価値を置いていて、そのことの自尊心に囚われるあまり、過去の仕事との比較でパートのオバサンがしてきたポスター貼りを半端仕事だと見做し、素直に取りかかることができないから確認が疎かになる。

 どんな仕事でも一生懸命にやるという姿勢があったなら、仕事に優劣をつけなくなる。当然どんな仕事でも注意深く丁寧にすることとなって、そう滅多に確認が疎かになるはずはない。

 このように純粋に天下りの形を取って子会社に移ってきたわけではなくても、親会社の威光を背景に君臨するという点で「民から民への天下り」と変わらない天下りもどきの労働姿勢は親会社とその従業員は上の地位、子会社とその従業員は下の地位、期間工はさらにその下の地位と固定的に位置づける権威主義が許し、その反映としてある姿なのだから、権威主義を行動様式としている日本人の日本全国に亘って蔓延している一般的な構図だと見ることができ、簡単にはなくならないという点で一筋縄でいかない問題であろう。

 天下った官僚の元勤務先官庁への影響力を利用して利益を得る官民天下りと同じ構造の民民天下り雇用もある。天下り先企業の利益に絡んでくるから、単純に「弊害」を理由にやめるべきだと主張しても、簡単には受入れられないに違いない。

 例えば小中、高の修学旅行の売込みを重要な営業品目の一つにしている旅行会社はそれぞれの退職校長を採用して、その顔で一つではない、何回か異動している複数のかつての勤務校を訪問させて修学旅行を獲得する仕事に就かせているというが、これなどは官民天下りの「民民」版であって、本質的には同じ構造のものだろう。

 この場合の「顔」とは学校在任中に校長が下の地位に位置させていた教頭以下の教師に対して自らを上の地位の者として立たしめることで獲ち得た「権威」を後ろ盾とした影響力のことだろう。それが教育現場を離れても効き目を失わずに維持される。権威主義的人間関係が如何に日本社会に根づいているかの証明でもある。

 かなり前の新聞記事だが、訪問される学校の修学旅行担当教師の「元校長に頼まれると断りにくい」と言っていた言葉を紹介していたが、権威主義の人間関係を当たり前としている現在でも変わらない束縛となっているに違いない。その束縛が旅行会社にはカネのなる木――利用価値へと変身する。なかなかに一筋縄でいかない天下りである。

 旅行会社は元学校長を雇うについても、修学旅行を獲得してこればきたなりに報酬を支払わなければならないだろうから、その分修学旅行費に上乗せされる。決して「弊害」はないとは言えないが、旅行会社としては会社存続にかかっているから、当然価値観を異にすることとなって簡単には捨てられない「弊害」ということになる。

 03年10月に東京都教育委員会の複数の指導主事が教科書会社から温泉旅行の接待などを受けていたことが判明しているが、教科書会社の中には自社教科書の採用を目的に教科書選定の決定権を持つ教育委員会の退職者の中から天下りを受入れているところもあると疑ってかかれないこともない。

 官民天下りにしても、民民天下りにしても、上の地位にある者と下の地位にある者との間に反応し合う権威主義の行動様式によって有効となる著しく日本人の人間関係に添った雇用形態であり商慣習であるから、その弊害を取り除くには日本人の行動様式から権威主義性を剥ぐことから始めなければ原因療法とならないに違いない。やはり一筋縄ではいかないということになる。それが単に定年退職後の居場所の付与の場合に於ける弊害であっても、企業利益獲得用の「顔」、もしくは口利き役の場合に於ける弊害であっても。

 定年退職後の居場所の付与の場合の天下り人間が持つ権威主義性は弊害以外の何ものでもないだろうが、企業利益獲得用の「顔」、もしくは口利き役の権威主義性は強力な程、民間会社にとって有難い歓迎すべき利用価値ということになって、なおさらに始末に悪い。

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