「改革」は政治家すべてが担うべき政治行為
バラック・オバマ「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。・・・・イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」
ジョン・ケリー上院議員を2004年の大統領選民主党候補として選出した党大会での基調スピーチだとWikipediaに出ている。次期大統領選民主党候補予備選でヒラリーに猛追、接戦に持ち込んで逆転しかねない勢いが黒人初の大統領誕生かと思わせ、その関係からの先取りなのか、マスコミが格調高い優れたスピーチとして最近再び取り上げ、多くの人に共感を与えているらしい。
文字に起こした言葉を一読しただけでも格調高く理想を謳い上げたスピーチに思えるから、力強くイントネーションをつけた言葉を一語一語直に聞いた人間のその感動は相当なものがあったに違いない。
だが、この格調高い優れた理想論には残念ながら人間が利害の生きものであることへの客観的視点がまったく欠けている。逆説するなら、客観的視点を欠くことによって展開し得る理想論となっている。客観性を欠いた政治家とは二律背反を意味するのみである。一言で言うなら、オバマが「ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と言える程にアメリカはユートピア社会だと言えるのかということである。
理想論は一般的には社会その他の「現実の姿」を前提に、それを改める形で語られる。「リベラルと保守」の衝突、「白人と黒人」あるいは「黒人とアジア系」、「白人とラティーノ」等との人種的対立、あるいは人種間の軋轢、国の富を過剰に占有した一部富裕層と貧困層との利害の対立、あるいは金持ちの、我々は努力した、奴らは怠けて努力しなかったのだ、低所得者の、汚い手を使ってカネと地位を得たのではないのかといった相互反感。また富める州と貧しい州との感情レベルの相互不信等々のアメリカ社会の現状は政治家の誰もが消去し得ずに現在進行形で存在し続けている姿であろう。
黒人とアジア系の対立の例として、1992年4月の黒人による韓国系アメリカ人商店を襲撃したロス暴動を挙げることができる。昨2007年4月の在米韓国人男子大学生が在籍していたバージニア工科大学で銃を乱射し、教師を含めて32名を殺害、自身は自らの銃で自殺。事件後アメリカの一部で反韓感情が噴き出したということだが、そのことはアメリカが決して「ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」ではない現実を教えている。
イラクで現実に戦争しているアメリカ兵とそれを支持するアメリカ人は同じアメリカ人でありながら戦争のない母国という安全地帯で命の危険を曝すこともなくイラク戦争に反対するアメリカ人を果たして愛国者と見做すことができるだろうか。
また逆にイラク戦争に反対しているアメリカ人は自分たちの主義・主張を裏切る存在としてイラクで戦争を遂行しているアメリカ人を世界に於けるアメリカの地位を貶める存在として、あるいは下らない戦争で尊い生命をムダに落とす愚か者として真の愛国者と見做すことができないのではないだろうか。
ある党派は主として富裕層の利害代弁者となり、別の党派は中間層以下の階層の利害代弁者となる。すべての階層の代弁者となり得ないのは人間が利害の生きものであり、それぞれの立場、階層で利害が異なるからなのは言うまでもない。異なる利害のすべてを代弁するのは二律背反以外の何ものでもない。従業員の給料を下げたい経営者と自分たちの給料を上げたい労働者のそれぞれの利害を双方共に満足させる方法はない。程よく妥協させたとしても、双方共に不満が残る解決しか見い出せないだろう。
2005年8月末にルイジアナ州を襲ったハリケーン・カトリーナにしても、昨07年10月のカリフォルニアの山火事にしても、収入・財産の違いで事後の生活状況に違いが生じているし、現在世界中を騒がせているアメリカのサブプライム問題にしても、家を失い戸外生活を送らざるを得ないかどうかの分れ目はその収入・財産によって決まるのは仕方ないにしても、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”」だから、それぞれの生活の姿が「みな同じ」と言うわけには決していかない現実を示している。
そうであるにも関わらず、バラック・オバマの格調高いスピーチは上記アメリカの現実を踏まえて、こうあるべきではない、それを改革して私が語るようなアメリカになるべきだと訴えたわけではない。政治党派的には「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」と言い、人種的には「黒人のアメリカも白人のアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」と言い、「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と現実の姿としてある相違・矛盾、利害の対立を一切捨象し、相互の利害の違い、あるいは立場の違いが生み出すどのような矛盾も相違もないアメリカのユートピアを提示したのである。
いわばバラック・オバマは実際には存在しないアメリカの姿を語ったに過ぎない。だとしても、自分が既にそんなアメリカだとバラ色に描いて見せたアメリカを現実の姿として実現させるなら、彼の語る格調高いスピーチはウソを補うことができる。
果して人類が地球上に生存して以来、誰もなし得なかった理想の姿――ユートピアをバラック・オバマはアメリカ合衆国第44代大統領として実現させ得るのだろうか。第44代大統領に就任しなければ、スピーチはスピーチとして片付けることができ、ウソは気づかれないままに葬り去られるだろう。アメリカ合衆国全体を立脚点とした政治改革者の立場にはないことになるからだ。
だが。アメリカ合衆国第44代大統領の地位に就いたなら、「ただ“アメリカ合衆国”があるだけ」、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”」とする理想のアメリカ・ユートピアを実現させる責任を負う。格調高いスピーチのウソを曝け出さないために。大統領となった政治家の言葉は例え過去に発した言葉であっても重い。多くの国民にそうと思わせたのだから。
オバマの格調高いスピーチで思い出すのは安部前首相の「美しい国・日本」なる主張である。オバマのスピーチと同様に所詮現実の姿を踏まえて、その先に見据えた国の姿ではなかった。当然外側のハコだけを立派に見せ口先だけで弄んだだけのハコモノに過ぎない「美しい国・日本」であった。
政治は様々な形で常に再生産されていく社会の矛盾や相違を踏まえ、それを改革していくことであろう。だが、人間が利害の生きもので、相互に異なる利害を抱えているために社会の矛盾や相違、格差は調整したり抑えることはできても、なくすことはできない。一方によく、一方に悪いといったことが起こり、そのことがまた新たな矛盾や相違、格差を生じせしめる。再び露な姿を見せることとなった矛盾や相違、格差との闘いに立ち立ち向かわなければならない。その終わることのない闘いが政治の務めであり、政治の歴史であろう。
また、政治が負の要素を肯定的な要素に変革する行為だとするなら、政治家の発する「改革」なる言葉は特定の政治家のみが持ち得る特定のキャッチフレーズではなく、すべての政治家の一般的は言葉であって、問われるべきは「改革」の対象と方向、その具体化の能力であろう。人間が利害の生きもので、そこから生じる矛盾を払拭しきれない限り、「改革」は無限循環の宿命にあると言える。
「改革」なる言葉を特定の政治家の特定の言葉だと勘違いすると、過つことになる。中には「改革」を唱えながら、当選回数を重ねることだけが目的であったり、大臣の椅子に座ることを夢見、それを果たすことを念願としている政治家もいる。
現実の姿を把えることのできない政治家は「改革」をよりよくなし得ない。その語る「理想」は「理想」を語るための「理想」といった自己目的化に陥りやすい。