前時津風親方逮捕/大相撲改革は個人で立つ・個人で立たしめることから

2008-02-09 06:06:00 | Weblog

 大相撲の時津風部屋の力士、入門して2ヶ月の時太山が愛知県犬山市内の宿舎で親方と兄弟子たちから暴行を受けて17歳の若さで殺害された。名古屋場所前の昨07年6月26日。愛知県警は身体中に打撲痕やアザの跡がありながら検視も司法解剖も行わず、医師の診断を根拠に虚血性心疾患による病死と断定。

 身体の傷に不審に思った父親の依頼で新潟大学が死亡の2日後の6月28日に遺族の同意を得て行う公費承諾解剖を行った結果、死因を多発外傷によるショック死と断定。警察は事件として扱うことにして捜査を開始し、そして逮捕まで7ヶ月余経過している。

 逮捕の報道に接したとき、なぜそんなに時間がかかったのだろうというのが第一印象であった。暴行を加えたのが一人で目撃者がいなければ、その人間の自白に頼らなければならないが、兄弟子たちも加わり、目撃部外者もいる。例え口裏を合わせていても、何から何まで完璧に合わせることなど不可能であろう。一人ひとりの証言を取り、一致しない点を追及していけば簡単に崩れる口裏だと思うが、素人考えなのか、半年以上かかった。

 例え素人考えであっても、それを承知で疑問を解くとしたら、親方が所轄署の犬山署署長とタニマチ的な知り合いだというから、当初の不審死の段階で親方から「何分よろしく」があって、父親が一目見てこれはおかしいと思った外部から加えられたと分かる無数の傷がありながら、それを無視して検視も司法解剖も行わなかった手前、簡単に立件できなかったのではないか。簡単に立件してしまったなら、そんなに簡単に立件できるなら、なぜ最初から立件しなかったのだと、逆に警察の初期処置の不適切さが暴き立てられて、「何分よろしく」に行き着きかねない。逆に時間ををかけることで立件が困難な事件だったと思わせて、最初の取扱いの不適切さにフタをした?・・・・

 何しろ解剖医が<愛知県警が県警本部の検視官の出動要請をせず、病死と判断したことについて「無数の外傷があり、事件の可能性を考慮すべきだった。初動捜査がなっていない」と批判し>た上で、<遺体を見た時の印象について「すぐに病死でないとは言い切れないが、解剖しないといけないと感じた。検視官の出動要請は最低限すべきだった」と批判>(07.10.15/時事通信社≪「初動捜査なってない」=力士死亡で新潟大解剖医-愛知県警を批判≫)しているのである。当初から警察は果たすべき役割を裏切っている。それが無能もしくは怠惰からきていたものなのか、テレビで報道していたように名古屋場所が開催されるたびに時津風部屋のチャンコに招かれていたといったタニマチ的付き合いがあったがために意図的に捜査の手を緩めてしまったのか、疑問が残る。

 いずれにしても暴行死の原因となった相撲界全体にはびこっている稽古や私生活上の態度に関する親方の弟子たちに対する、あるいは兄弟子の弟弟子に対する教えが「身体で覚えさせる」類のへとへとになるまで長時間申し合いをさせたり、体罰まがいに竹刀や棒で直接身体に物理的な打撃と苦痛を与えて叱咤する、それを育って欲しいための「かわいがり」だ「指導」だとする古い体質を浮かび上がらせた。

 こういったことは「大人」がすることなのだろうか。「大人」とは自律(自立)した存在を言う。

 また暴行死に適切な対処ができなかったとして各相撲部屋を統括する立場の北の湖理事長率いる相撲協会が批判の的となった。文部科学省は前親方と3人の兄弟子が傷害致死の疑いで逮捕されたのを受けて相撲協会に対して現在力士OBだけで構成されている協会理事会に外部からの理事の受入れを要請し、相撲協会も受入れる意向だという。

 今回の事件と外部から理事を相撲協会のメンバーに加えるといったその後の処置が功を奏して各相撲部屋から体罰まがいの稽古や指導が姿を消したとしても、それで根本的な解決ができたとすることはできまい。07年9月29日の当ブログ記事≪時太山暴行死は親方の自律性(自立性)欠如が原因≫で、親方・弟子双方共に自律(自立)していないから命令・支配の方法に頼ることでしか稽古や指導をつけることができない、下の者も上の者の命令・支配を受けることでしか稽古ができない、日常生活のルールづくりもできないといったことを書いたが、そういった体質を身に染みつかせているとしたら、自律性(自立性)の問題を解決せずに放置したなら、喉元通れば熱さ忘れるで、いつ何時再発しないとも限らない「かわいがり」であり、「指導」ということになりかねない。

 上記ブログにこう書いた。<支配と被支配の関係は相互に自律(自立)していない関係を言う。上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を両者間の行動力学としているからだ。
 支配が厳しい稽古やハードな練習によって強まれば強まるほど、相互の自律(自立)性は狭まっていく。指導する側が指導を受ける側にすべてを任せることができないから、自らの自律性(自立性)を自ら狭めて指導という支配を強め、その支配を受け入れることによって、指導を受ける側も自らの自律性(自立性)を狭めていく。言ってみれば、指導や練習を厳しく要求すればする程、自律性(自立性)は相互縮小が進む。
>・・・・

 体罰まがいの身体に覚えさせる命令・支配とその受容双方共にどのような自律性(自立性)を認めることができるだろうか。それぞれが個人として立っている「大人」の状況にあると言えるだろうか。

 親方も弟子も相互に自律(自立)的存在であること。各相撲部屋も相撲協会に対して自律(自立)的存在であること。相撲協会も各部屋を支配するのではなく、対等の関係を結ぶことで自らを自律(自立)的存在たらしめること。

 上の者も下の者もそれぞれが個人として立つことから始めて、上の者は下の者に対して常に個人として立たしめる指導を模索することをしなければ、真の大相撲改革は成し遂げることができないのように思えて仕方がない。

 その具体的方法は先のブログでも言っているように稽古も生活態度も本人に任せる。相撲に関する技術を教えること以外に口を出さない。強くなるのもならないのも本人の姿勢次第だと任せる。任せても、兄弟弟子や兄弟子、他の部屋の力士に対してライバル意識を持って申し合いや稽古ができないようなら、見込みはないからとやめさせれがばいい。

 モンゴル人の朝青龍が持っていて日本人力士にないものは一に気迫であろう。身体に覚えさせる「かわいがり」や「指導」で気迫がつくとでも言うのだろうか。だとしたら、日本人力士も朝青龍と同程度に気迫があっていいはずだが、大人と子供ぐらいの差があるのはなぜなのだろう。あるいは同じ厳しい稽古や指導を受けたすべての力士が同じ程度の気迫を身につけていいはずだが、そうとはならないはずだ。

 気迫を身につけることができるかどうかは力士それぞれの姿勢にかかっている。進んで稽古をする、進んでライバルに負けまい、勝とうと努力する、進んで上位力士にいつかは追いつき、追い越そうと稽古に励む。そのよう積極性、進取の気概が「気迫」を生む。

 「進んで」とは何にもまして自発的・自力的なもので、決して他発的・他力的に与えられるものではない。自ら獲得するものである。他発性そのものである命令・支配からは生まれない。生まれるとしたら、他力に頼った「進んで」でということになって、自己矛盾を侵すことになる。あくまでも本人の姿勢を条件とした取り組みでなければならない。

 自ら獲得する精神性である以上、よりよく個人とした立っていることが獲得の絶対条件となる。個人として立つとは他からの命令・支配を受けていない状態を言うからだ。受けていたら、自ら獲得することにならないし、「進んで」の姿勢から離れることになる。力士としてどうあるべきか、どう存在し、どのように自己を存在づけるか、何を以って自己存在の証明とするか。いわばどのように自己実現を図るかは個人として立っていることを条件として、初めて可能となる。そういう指導は「任せる」ことでしか達成できない。

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