「考える力」を奪う新学習指導要領案の「道徳教育」

2008-02-18 13:00:47 | Weblog

 合理的判断能力を欠いた単一民族主義者・日本民族優越主義者の育みには役立つ

 新学習指導要領案が文科省によって発表された。文科省の「教育基本法の改正に対応した学習指導要領案の主な改訂点」を読むと、冒頭は次のような記載となっている。

 <●学習指導要領(冊子)の冒頭に「教育基本法」(全文)、「学校教育法」 (抜粋)を収録。
 ●学習指導要領の「総則」の冒頭に、「各学校においては、教育基本法及び学校教育法等に示すところ
  に従い、適切な教育課程を編成するものとする。」と規定>し、<学習指導要領が教育基本法等
  の理念を踏まえたものであることを明らかにする。>としている。
 
 いわば、前首相の安倍国家主義教育の始まりの宣言である。下記下線部分・太字部分を見ても分かるとおりに、授業を「道徳色」で染めようとする意図がミエミエで、すべて安倍国家主義者が望んだ教育形式だからだ。不足部分は「道徳教育の教科化の見送り」のみである。反対を和らげるために一歩ずつ前進ということなのだろうが、一気に推し進めたい安部晋三にとっては「福田と渡海めっ、何をやってるんだ。単一民族主義者の伊吹が文科大臣だったらよかったのに」と自らの国家主義が完璧には満たされなかった悔しさのあまり歯軋りし、地団太踏んでいるに違いない。また下痢を起こさないように。

 改定教育基本法が掲げる「教育の目標(第1章第2条)」の規定を新学習指導要領案でどう指針づけるかは次のように提案している。

 <・幅広い知識と教養、豊かな情操と道徳心、健やかな身体(第1号関連)
 ・「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和を重視。
 ・学校教育全体を通して、言語活動や体験活動、道徳教育、体育や食育を充実。
 ・道徳教育について、目標に、伝統や文化の継承・発展、公共の精神などを規定すると
  ともに、道徳の時間を要(かなめ)として学校の教育活動全体を通じて行うこ  とを明記。
 ・発達の段階に応じた指導内容、例えば、挨拶、規範意識、自他の生命の尊重、社会の形成への主体的
  な参画などを具体的に明記し、指導内容を重点化するとともに、体験活動を重視。
 ・先人の生き方、自然、伝統と文化、スポーツなど児童生徒が感動を覚えるような魅力的な教材を
  開発・活用
 ・「道徳教育推進教師」を中心とした指導体制を充実
  各教科等においても、道徳の教育内容を適切に指導することを明確化。>

 「道徳教育推進教師」まで置いて「道徳の時間を要(かなめ)」とした教育だというから復古主義的道徳教育の徹底と言える。全国的な統括者を置くとしたら、エセ品格者藤原正彦がふさわしいのではないだろうか。

 このような「道徳」偏重を見ると、新学習指導要領案の狙いは改定教育基本法「教育の目標(第1章第2条)」の内、「五」の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」の中で特に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とした部分の「愛国心規定」を中心に据えた「学習指導」だということが分かる。

 大体が後半部分の「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」は前半の「愛国心教育」が突出している印象を避ける意味からのバランス上の付け足しに過ぎないのだから、勢い道徳教育を中心に据えた愛国心教育に向かうのは必然的な趨勢と言える。いわば道徳教育と愛国心教育を響き合わせている。

 これはなぜかと言うと、日本の国家主義者たちが戦後レジーム以前の日本国家(=神武建国以来から戦前までの日本)を天皇の聖徳(せいとく)によって治められた道徳国家と位置づけているからだ。天皇の「聖徳」と侵略戦争、日本軍強制の従軍慰安婦制度、同じく日本軍強制の沖縄集団自決、中国・朝鮮人強制連行、南京虐殺とその他の日本軍虐殺・虐待等々は矛盾する事柄だが、「そんなの関係ねえ、オッパッピー」なのだろう。とにかく合理的判断能力を欠いてまでして日本を美しい無誤謬の国家・民族としたいのだから。

 合理的判断は公正・的確な客観的認識能力が保証する。にも関わらず、「伝統や文化の継承・発展」にしても、「先人の生き方、自然、伝統と文化、スポーツなど児童生徒が感動を覚えるような魅力的な教材を開発・活用」にしても、上記能書きの中の「魅力的な」という言葉に象徴されているように、あるいは国家主義者たちが好んで使う常套句の「日本の伝統」とか「伝統を守る」といった言葉に集約されているように、負の歴史・負の伝統・負の文化を排除した「いいとこ取り」が許している公正・的確に反する非合理的判断が仕向けた「学習指導」なのは明らかである。

 歴史上こういう立派なことを成し遂げた日本人がいた、日本には過去の歴史でこのような立派な業績があった、この地域にはこのような素晴らしい伝統が生きづき、文化が受け継がれている、あの地域には世界に例を見ない優れた先人の生き方が伝統として根付いていて地域住民の生活の中に溶け込み、生活の中で自然と後世に伝えられてきた、みな規律正しく品格を持って正直に正しく生きてきたから自分のものとすることができた歴史と伝統と文化なのだといった日本の歴史、伝統、文化それぞれの「いいとこ」だけを取って教える。

 これは安部「美しい国づくりプロジェクト」の趣旨にそっくりと添わせることができる。<日本の「薫り豊かな」ものや途絶えてはいけないもの、かつては美しかったが美しくなくなってしまったものを見つめ直し、あらゆる世代が日本の「良さ、素晴らしさ」に気がつくこと。>、<一人ひとりが、「美しい日本づくり、美しい自分探しへの旅」を始め、その思いをきっかけに自らが行動するような身近な視点での取り組みを推進すること。その結果、描き出されたものを「美しい国、日本」として皆で共有し自覚し合うこと。>

 両者とも日本の歴史に関しても伝統に関しても文化に関しても「いいとこ」への視点しか持たず、負の場面を一切排除している。このような経緯は当然のこととして合理的判断能力の欠如への一里塚とならないでは済まない。

 日本人が自国の歴史・伝統・文化を取り上げるとき、「優秀」あるいは「美しい」をキーワードに語る傾向は以前からのものだ、教育現場に於いてもそれは変わっていない。同じ日本人だからだろう。当ブログ06年6月22日記事の≪愚かしいばかりの〝愛国心〟教育≫で6月16日NHK放送の『どう教える愛国心』を取り上げたが、西東京市の向台小学校6年生の教室で若い教師をサポートしていた校長が生徒に次のように質問する。

 「自分たちが住む日本のよさは何だと思いますか?僕はこうなんだ、私はこうなんだとよということを少し紹介して欲しい」

 校長の「いいとこ取り」の誘導を受けて生徒たちも「日本人は正直さと言うことを大切にしていて、日本人は正直だと思う」とか、「空気がきれいなところへ行けば、星がたくさん見れる」、「春夏秋冬の四季があって、景色が四季によって変わるし、何か旬の食べ物も四季によってある」と日本の「いいとこ」のみに目を向けた「いいとこ取り」の答を出している。

 だが正直な日本人ばかりだとしたら昨今の食品偽装・食品偽造は説明不可能となるし、官僚の談合・公金の私的流用・ムダ遣い、特に社会保険庁職員の不正は説明つかなくなる。政治家の族益行為も口利き行為も説明がつかない。

 いわば「いいとこ取り」の愛国心教育、それと響き合わせた道徳教育は一方で合理的判断能力を欠いた思考能力を育む装置となり得ることを証明している。

 経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査にしても昨年4月に行われた文科省の小学校6年生と中学校3年生を対象とした全国学力テストにしてもそこそこの成績を収めた「基礎学力」と比較して「考える力(=思考能力・応用能力)」が10ポイントから20ポイント劣るという結果に既に現れている合理的判断能力の欠如なのである。

 それを「道徳教育推進教師」まで置いて現行教育以上に「道徳の時間を要(かなめ)」とした「いいとこ取り」だけの「愛国心教育」、「道徳教育」を刷り込んでいけば、合理的判断能力が育つのをこれまで以上に堰き止める役目しか果たさないのは目に見えている。

 そのような「愛国心教育」、「道徳教育」の刷り込みが赴く先は、暗黙の日本民族優越主義であり、単一民族主義なのは間違いない。「いいとこ」だけを教えられ、日本の歴史や伝統・文化の持つ負の場面、負の価値を教えられないからだ。負の方面の知識がないままに育つからだ。日本人が美しいばかりの人間ではなく、醜い側面を多分に持った人間でもあることの教育の機会を与えられないからだ。

 結果として中曽根や伊吹や麻生や鈴木宗男や平沼の後に続く日本民族優越主義者やイコールとしてある単一民族主義者を次々に生むことになるのだろう。

 伊吹「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国で、悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」

麻生「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」

平沼「小さな国土に1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国で、日本が世界に冠たるもの」

 鈴木宗男「日本は一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから」

 大トリは中曽根御大「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当知的な社会になってきている。アメリカなんかより、はるかにそうだ。平均点からみたら、アメリカには黒人とか、プエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的に見たら非常にまだ低い」

 (以上「アイヌ民族の存在を否定する「単一民族国家」発言に抗議を!」から引用)

 中曽根以下の国家主義者に続く人間の輩出は安部や中川昭一といった国家主義者には喜ばしい現象であろうが、代価として日本人の合理的判断能力を子供レベルに置き去りにすることになる。尤も上記自民党政治家の国家主義思考(=日本民族優越意識・単一民族意識)は合理的判断能力を子供レベルに置き去りにしているから成立している主義・主張に過ぎない。

 歴史や伝統・文化の「いいとこ取り」の教育が合理的判断能力を阻害するばかりか自国に対する優越意識の育みにしか役立たないということなら、そのような弊害を避けるには今ある「社会の姿」を教えることで補わなければならない。今ある社会のプラス・マイナスの姿が「いいとこ取り」に傾かない教育となり、日本優越民族教育・単一民族教育を排した合理的判断能力の育みにつながる。

 いくら日本の歴史・伝統・文化が他国に優越している、美しい姿をしていると教えても、現在住んでいる現実の社会が他国の社会と比較して優れてもいない、美しくもないということなら意味をなさない。

 また現実の社会の姿を教えることによって優れているばかりではない、美しいばかりではない姿を学ぶことを通して否応もなしに対象に自己の姿をも含めて人・物事を客観的に眺める目が育ち、それは合理的判断能力につながっていく。

 ということなら、真っ先に問題としなければならないのは今ある現実の社会をどうするかということになる。それをより公平・平等・公正な社会へとどうしたら築いていけるか。それを考えさせれば、考える力・生きる力。自分で決定する力の育みを目的とした「総合学習」にもなる。「合理的判断能力」とはそもそもからして考える力・生きる力。自分で決定する力を含む。

 学校の勉強ができなかった人間の提案だから当てにはならないが、どんなものだろうか。

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