菅首相はエセ市民派

2010-11-10 09:57:39 | Weblog

 11月1日(2010年)の衆院予算委員会での菅首相と社民党の服部良一議員との質疑答弁から、改めて菅首相がエセ市民派であるかを炙り出してみようと思う。

 服部良一議員「エー、社民党の服部良一です。エー、さて、エー、私は兼ねてから、機会あれば、え、菅総理に一言聞きたかったんですが、ま、菅総理は日本初の、おー、市民運動出身の総理、とか、市民派総理の誕生とか言われましたが、総理自身は今、市民派と言われることについては、どうお考えですか(からかうような笑いを顔に浮かべる)

 菅首相「あのー、私のォー政治経歴が、あー、あのー、おー、ま、社会に出てから、市民運動に参加をし、イー、また、そうした関係の方などを応援してきた、ので、ま、市民派と言われることは、あー、私にとっては大変自然なことであります。

 ただ、あの、今総理大臣という立場で、物事を考えるときに、そういう個人としての、おー、何て言いましょうか、思いというのは、私自身では今でも変わっていないつもりでありますが、シー、ただ、その、まあ、何と言いましょうか、(苦しい言い訳をしているよう)自分が思いの濃いところだけをですね、エー、どんどんやっていいという、ウー、ような、役割ではなくて、今、日本が置かれた状況の中で、エー、何をやるべきか、エー、ということを考えた中で行動をしていますので、ま、それがいわゆる市民派という、ウー、範疇、ウー、をですね、ま、越えたというかですね、そういったことも、しっかりやっているつもりです」

 服部良一議員「今、私がなぜ、このようなことをお聞きしたかと言いますと、マ、私自身も、ま、長い間市民運動に関わってきましたし、ま、それと同じ団塊世代の、おー、一人です。同世代の人が菅総理を昔から知っている人は菅さんが総理になったら日本、が変わると思ったと、言う方が多いんです。しかし、今、言い方がみんな過去形なんです。変わると思ったんだがなあー・・・と。

 ま、私にとって、ま、市民派の定義は、ま、一つは、財界や団体やアメリカのヒモつきではない、自由な目線。二つは、生活者、庶民目線。三つは、ま、豊かな環境で平和に生きて、という願望ではないかというふうに思うんです。

 ま、最近の菅政権の、ま、政策は、ま、企業献金は再開、消費税を上げて法人税を下げると言い、ま、農業など第一次産業の切捨てのTPPへの参加は前のめり。武器輸出三原則の緩和を検討。普天間基地の辺野古移設は推進。米軍への思いやり予算は削減しない。原子力発電所を輸出する。

 ま、どう見ても私には庶民派目線、市民目線の政策とは、ま、見えないんですね。ま、そこで菅総理に、お聞きいたします。ま、鳩山前総理の命を大切にする政治という言葉も、もう今さっぱり、聞こえてきません。菅総理も最小、オ、不幸社会、というお言葉も最近お使いになりません。けれども、総理は日本をどういう社会にしたいんですか。ま、端的な言葉でお聞かせください」

 菅首相「ま、私は、あー、あー、市民派という言葉に、イー、ストレートにイコールかどうかは別として、エー、国民主権というものを軸とした政治と、いうことをこの間ずっと言ってまいりました。ま、特に実際の場合は、あ、市民が自分たちの、おー、町の首長を選ぶわけですけれども、国政に於いては直接的には総理大臣を、選べませんので、エー、政党を通して、エー、自分たちの、おー、総理を選ぶと、そういう意味で私は、二大政党による政権交代が、必要条件だと、そのように考えてきました。

 エー、また政策にも、おー、情報公開などを含めてですね、え、国民が、政治に、参加、あー、することが、できる、ウー、より大きな、あー、道筋を、つくっていくことがそうした政治につながると、考えてまいりました。

 シ、ま、そういった中で、エー、今いくつか、あー、TPPの話とか、アー、いろいろな話を挙げられましたけれども、おー、私はですね、必ずしも、例えば、先程来、議論がありましてけれも、おー、農業を、おー、活性化するということと、エー、同時に、イー、経済の自由化に乗り遅れないで、頑張っていくということは、あー、両立できると、思いますし、そのことがいわゆる市民派というものと、矛盾するとは全く思っておりません。

 シ、逆に言えば、何か一部に、拘って、エ、頑張る、あ、市民運動であればそれでいいと思うんです。自分が拘ったところを、有機農業なら有機農業で頑張る。大変立派です。しかし国全体を(次第に言葉に熱がこもってくる。)、ヲー、責任を持って内閣を運営する中では、その問題も重要ですが、場合によっては、あ、貿易の自由化に乗り遅れないということも、重要であるわけですから、そこを両立できるかどうか、まさに問われていると、そういう覚悟で、臨んでいるつもりであります」

 服部良一議員「ま、私は、あのー、政策をお聞きしたというよりかはですね、ま、首相のま、理念と言いますかね、もっと端的な言葉で、お聞きしたかったわけです。今日は、ちょっと、総理、お元気がないことはないんですか(笑う)

 ま、政策の前にですね、やはり情熱と言いますか理念というものがね、私はあると、思うですね。総理、まあ、私は国会議員として、目指したことはですね、ま、突きつめてみると二つなんです。ま、格差や貧困が広がる社会でなく、ま、みんなが飯が食える、社会にしたいということ。それと、戦争だけは絶対にあかんで、ということなんですね。ま、さて、次の質問ですけど・・・」

 労働者派遣法改正法の質問に移っていく。(以上)

 服部議員の「今、市民派と言われることについては、どうお考えですか」の質問に対する菅首相の最初の答弁は何か苦し紛れの言い訳を言っているような、途切れ途切れの発言となっている。

 また最初の答弁の最後の部分の、「それがいわゆる市民派という、ウー、範疇」云々以下は市民派の範疇を超えたこともしっかりとやっていると言いたかったのだろうが、言葉遣いが怪しくなっている。

 もし「市民派の範疇を超えたこともしっかりとやっている」との意味で言ったのだとしたら、市民派の範疇内のこともしっかりやっていることになる。このことを、市民派としての「個人としての思いは私自身では今でも変わっていないつもりであります」と、首相となった現在でも市民派意識は保持している、昔も今も何ら変わらないしている発言で自ら補強証明している。

 だから、「ま、市民派と言われることは、あー、私にとっては大変自然なことであります」と胸を張って言えたのだろう。市民派であることをピカピカ光る勲章としている菅首相の誇りある心象を窺うことができる。

 服部議員は次の質問で、「総理は日本をどういう社会にしたいんですか」と尋ねた。市民派出身で、尚且つ現在も市民派の血を失わないと自らは言っている首相がデザインしたいと欲している、あるいは熱望している社会像を問い質した。

 当然その社会像は市民を成り立たせ、その生活を成り立たせることを第一の基盤とした社会像でなければならない。市民派とか市民運動家とは市民との関係で成り立つ姿だからなのは断るまでもない。常に常に市民との関係で自身を表現する。自身の行動を市民との関係から創り出す。でなければ、市民派とも市民運動家とも言えないはずだ。

 もし市民との関係で把握する認識に基づいて自らが創造したい社会像を説明する意識があったなら、「市民派という言葉にストレートにイコールかどうかは別として」といった発言は出てこないはずだ。直ちに「ストレートにイコール」する社会像を提示したであろう。

 当然、「ストレートにイコールかどうかは別として」とした時点で服部議員の「総理は日本をどういう社会にしたいんですか」の質問に対して、二大政党による政権交代を条件とした、情報公開等を通じて国民が参加できる国民主権を軸とした政治の実現だとした答は市民との関係で把えた、市民を成り立たせ、その生活を成り立たせることを念頭に置いた認識ではないことになる。

 だから、政治体制の形式的な説明で終わることになっている。

 ここで既に菅首相がエセ市民派であることを暴露している。

 菅首相は問われた社会像の具体例としてTPP政策を例に取り、農業を活性化することと経済の自由化に乗り遅れないことの両立は「いわゆる市民派というものと、矛盾するとは全く思っておりません」と請合っている。

 だが、TPP参加を市民との関係で成立させるためには、「貿易の自由化に乗り遅れ」るか乗り遅れないかの視点からではなく、TPP参加によって国民一人ひとりの生活がどう豊かになるか、どのような恩恵を受けることになるか、市民との関係で論ずるべきだが、そこに市民との関係を一切置かない発言となっている。

 農業とTPP参加との「両立」にしても、農業従事者を含めた市民との関係で機能する「両立」でなければならないのだから、市民との関係で機能するかどうかの観点からの「両立」論であることが絶対条件となるが、そういった観点がないままの「両立」論、多分、口で言っているに過ぎない「両立」論なのだろう。

 市民との関係で把えた「両立」に見えない以上、両立が「いわゆる市民派というものと、矛盾するとは全く思っておりません」は偽りの言葉と化す。
 
 単に自身が掲げたTPP参加推進の正当化と自身を市民派であると正当化するための発言になっているに過ぎない。

 思想・信念は精神への血肉化があって初めて思想・信念と言える。私自身は死ぬまで到達し得ない境地だが、それが例え過去の肩書きである“元”であっても「市民派と言われることは、あー、私にとっては大変自然なことであります」と言う以上、思想・信念の精神への血肉化を果していなければならないはずであるし、現在も血肉化させていなければならないはずだ。

 簡単に血肉化が剥がれるような思想・信念はあり得ない。

 菅首相がかつて市民との関係で十全に機能する思想・信念を体現した市民運動家であったなら、その思想・信念は血肉化した精神となっていただろうから、例え総理大臣になったとしても、過去の発言と首相となった現在の発言との違いを立場と立場に応じた責任の違いを言い訳としているが、一旦血肉化させた思想・信念は強力な行動の基盤、行動のエネルギーとなるはずだから、すべての言動、すべての政策に何らかの形で反映されることになる。

 逆説するなら、かつての姿から総理大臣として国の政治全般を見なければならない地位へと立場を変えとたしても、過去の市民派、市民運動家としての思想・信念が反映しない現在の言動・政策は存在しないことになる。

 だが、菅首相の発言・主張には血肉化させた思想・信念の発動を受けて市民との関係で把握しようとする意図も欲求も感じ取ることができない。

 歌を忘れたカナリアというわけではないだろう。血肉化している思想・信念であるはずだから、血肉化していなかった、最初から歌わないカナリアだったとしなければ説明がつかないことになる。

 たまたま市民運動に参加する機会に恵まれ、自己活躍できる心地よい居場所となった。市民運動を自己活躍の場とし、名を成す便宜としただけのことで、運動を通して市民はこうあるべきだとする市民との関係で把えた思想・信念は頭の中の知識としただけで、血肉化する程には何も学ばなかったと言うことであろう。

 このことは中国当局に拘束状態にあるノーベル賞平和賞を受賞した中国人人権家の劉暁波氏の釈放を世界の首脳が求めたにも関わらず、「拘束を解かれて釈放されるのが望ましい」と間接的、且つ個人的希望としたことにも現れている。

 例え一国の首相となったとしても、自身を市民との関係に置いて、市民を成り立たせ、その生活を成り立たせる市民の感覚を忘れているからこそ可能としている他国の人権家の利害に無感覚な市民派でも市民運動家でもない態度であろう。

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