菅内閣の現在の惨状は菅首相提唱の「熟議の民主主義」の効果なのか

2010-11-27 10:09:30 | Weblog

 いずれの世論調査でも菅内閣の支持率が政権維持の「危険水域」とされる30%遥か下を行く超低空飛行を余儀なくされている。その超低空飛行下での法務大臣の失言が内閣を追い込み、辞任という形式を取らせた更迭、さらに失言や職務責任の不徹底等を問う内閣の要である官房長官と国土交通大臣に対する昨夜(2010年11月26日)の問責決議案提出・可決と菅内閣は2010年6月発足から改造内閣を経て散々の惨状を呈することとなった。

 大方のマスコミはこの原因を菅首相自身の指導力不足に帰しているが、事実としてある資質上の欠落ではあっても、それを補うべき数の力を欠いていることが現状演出の決定的な要因であろう。断るまでもなく、民主主義は数の政治でもあるからだ。

 勿論、数を獲得するにはリーダーの指導力が絶対条件となる。いわば数と指導力は相互補完関係にあり、相互対応し合っていると言える。菅首相の場合、リーダーシップ不足に対応して数をも欠いているということになる。

 リーダーシップを欠いていることが原因となって数を欠き、数を欠いていることが原因となって、リーダーシップをますます欠くという悪循環の状態にある。

 7月(2010年)の参議院で民主党が大敗、数を失ったのは消費税増税発言を不用意に行った菅首相の指導力不足に大きな責任があるはずである。鳩山前内閣の30%切った支持率から菅内閣発足による60%前後のV字回復と言われた支持率を背景に参院選を勝利に導く方策を描くのも菅首相の指導力にかかる責任事項であったが、指導力がないばっかりにその責任を果たすことができず、数を大量に失うこととなった。

 いわば参院選を契機として菅首相の指導力と参議院の数(=議席)は等しく対応し合ったと言える。菅首相の指導力が生み出した参院選の議席だと言い換えることもできる。逆に言うと、この少数を占めたことが、野党をして参議院で提出する問責決議案の有効性を保証する多数を占めさることとなった。

 これも断るまでもなく、問責決議案の提出・可決は参議院で野党が多数を占めることが絶対条件となるからだが、如何に数の確保が大切かを物語っている。

 菅首相は参院選大敗、参議院で数の力を失うと、失った数を補うべく「熟議の民主主義」を持ち出した。この提唱は菅首相自身の政治的創造性に負う提案ではあっても、政治的創造性は指導力の絶対要件である。数と指導力が相互補完関係にあり、相互対応し合っていることと同様に政治的創造性と指導力は相互補完関係にあり、相互対応し合っているはずである。指導力は政治的創造性に負い、政治的創造性は指導力によって生かされる相互補完関係にある。

 逆説するなら、政治的創造性から指導力を測ることができ、指導力から政治的創造性を測ることができる。菅首相が元来から指導力を欠いている政治家なら、あるいは指導力が期待できない政治家であるなら、政治的創造性を欠く、あるいは期待できない政治家と言えることになる。

 であるなら、いくら「熟議の民主主義」を提唱しようと、失った数を補うことはできない相談と化す。何よりも相互補完関係にある政治的想像性と指導力が必要となるからだ。 

 今年9月1日(2010年)の民主党中央代表選挙管理委員会主催の民主党代表選での菅首相と小沢元代表との共同記者会見で菅首相は次のように発言している。

 菅候補 「参議院の結果については私自身の責任論も含め、反省をしてまいりました。その上で、ねじれという状況になったことについて、私は一般的には厳しい状況でありまけれども、ある意味では天の配剤ではないかとも同時に思っております」

 参議院で数を失ったことを「天の配剤」だとする政治的創造性は素晴らしい。

 さらに菅首相は次のように言っている。

 菅候補 「ねじれという状況は、逆に言えば、そうした与党、野党が同意しなければ物事が進まない。逆に言えば合意をしたものだけが法律として成立をするわけすから、そういうより難しい問題も合意すれば超えていけると、そういう可能性が出てきたと言えるわけであります」

 数を失った状況での「合意」は新たな数の形成を意味する。数の形成なくして「合意」は成り立たない。参議院の数の喪失を「天の配剤」として、そもそもの数の力(そもそもの議席数)を恃まない「合意」を可能とする参院過半数形成の数を形成する「可能性が出てきた」と、参院選大敗を逆にチャンスと看做している。

 なかなかの勇気ある発言だが、菅首相が望む経緯を辿るにはやはり相互に補完し合う指導力と政治的創造性が絶対必要条件となるが、多分、自身にはその両方の資質があると自負していたのだろう。自負していなければ、「天の配剤」などと決して言えない。

 翌9月2日の日本記者クラブ主催の民主党代表選討論会では、数について次のように発言している。

 菅首相「私は金と数ということを、あまりにも重視する政治こそが古い政治だと。そうではなくて、お金がなくても、志と努力と能力のある人はどんどん国会議員にも、政治にも参加できると。そして、数の前に中身の議論をしっかりすると。その中で合意形成ができてくると、そういう政治こそが新しい政治で、今、日本に必要となっている政治は、その新しい政治だと、こう思ってます」

 前の日に発言した「天の配剤」論と、そもそもの数を頼まず、新たな数を形成することを意味する「合意」論を前提とした「金と数ということを、あまりにも重視する政治こそが古い政治だ」の主張であろう。

 民主党代表選の有楽町で行った9月11日の街頭演説。

 菅首相「採決をすれば、すべてが進むわけではない。与野党でしっかりと話をして、その中で『よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ』そういう熟議の民主主義こそが、しっかり議論する民主主義こそが、私は本物のリーダーシップを生み出す条件だと考えている」

 この「熟議の民主主義」にしても、そもそもの数(そもそもの議席数)を恃まず、「合意」を可能とする参院過半数形成の数を新たに形成する道具立てとして持ち出したものであろう。その実効ある展開を経て新たな数の形成となる、「よし、わかった、ここまではいっしょにやろう、しかしこの部分は自分たちの言うことも聞いてくれ」という「合意」成功のカギが「本物のリーダーシップ」だと言っている。

 だが、菅内閣は2010年6月の発足から約5ヶ月、早くも行き詰まってしまった。参院選大敗を「天の配剤」として、そもそもの数を恃まない「熟議の民主主義」を掲げて「合意」に必要な新たな数の獲得を目指しながら、「熟議の民主主義」が行われた気配もない。

 参院選で失った数は失った数のままにとどまっている。失う代償として与えた野党の参院多数が問責決議案の提出・可決を可能とした。柳田法務大臣の辞任を可能としたのも政権が参議院で失った数であり、失った分を獲得した野党の数であろう。

 民主主義が数の政治でもあること、数の力に対する認識が菅首相は甘いだけではなく、自身の指導力、政治的創造性に対する認識を欠いて、「天の配剤」だ、「熟議の民主主義」だと持ち出したようにしか思えない。

 公明党が菅政権と連携意思を覗かせているが、「熟議の民主主義」を条件とした連携ではなく、単に政権党の一翼を担いたい政党としての利害からなのは、菅内閣の支持率が現在程に低下する前は協力意思を露にし、支持率が低下すると距離を取るといった姿勢に現れている。

 所詮、「金と数ということを、あまりにも重視する政治こそが古い政治だ」や、「熟議の民主主義」は自身が言ったとおりには何も変えることができていないのだから、参院選を大敗して数を失った言い訳の効果はあったとしても、実質的には奇麗事で終わっている。

 何もかも政治的創造性も指導力も最初から持ち合わせていなかったことが原因の菅内閣の現在の惨状としか言いようがない。

 菅内閣が現在以上に壊れかかったなら、公明党にしても世論の反発に対する警戒感と、共に沈没しかねない恐れから、逆の政党利害が働いて、協力とは正反対の姿勢を取ることになるに違いない。

 参院選大敗後、自身の政治的創造性と指導力を省みて続投か辞任かの決定基準とすべきで、「首相がコロコロ代るのは良くない」を基準とすべきではなかったのだろうが、「コロコロ」を基準とする合理的判断能力の欠如が自身の政治的創造性と指導力を省みることを阻んだのだろう。今以てその資格もないのに、「石にかじりついても4年はやりたい」てなことを言っている。

 最後に何度かブログに書いていることだが、数は自政党の政策の優位性を訴えて獲得するものであり、獲得した数の力を背景に優位性あると訴えた政策の実現を目指すのが政権担当である。だが、菅首相の言う「熟議の民主主義」は数の力の優位性を喪失することによって他党の数を頼りにする必要上、その代償として政策の妥協を図ることが強いられるゆえに自らの政策の優位性を相対的に失うことを意味する。

 このことを菅首相は理解せず、参院選大敗以後政権維持だけを目的としていたから、「熟議」「熟議」だと振り回すことができたのだろう。


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